ほら貝のコンサートのためのテキスト Arbeitsjournal
Arbeitsjournal
2025年1月20日更新
ほら貝のコンサートのためのテキスト
(2008年2月13日開催)
工藤冬里
初めて自分の企画をすることになったのでシルクで大きなポスターを刷った。当時は宣伝というとそうするものだと思っていた。ポスターを貼らせてくれそうな店は高円寺のブラックプールと国分寺のほら貝くらいしか思いつかなかった。ヒッピーたちの早い時期からのニューヨーク・パンクの受容がまだ高円寺と国分寺を繋いでいた。そういうわけでほら貝に行った。店内は騒がしく、サンセイが屋久島に移住することになってね、と「もっきん」と呼ばれていた前髪を垂らした男が説明してくれた。山尾三省のことだとあとで知った。背中合わせに座る赤紫の妊婦を真中に配したマイナーのそのポスターはその後何年か貼られたままになっていて、ラフ・トレードの天井にテレビジョンの最初のポスターが貼ってあるのを見たときはほら貝を思い出した。初めてネオン・ボーイズやマースを聴いたのも国分寺の文化住宅の、ひとびとが正座して合掌して食べている席でのことだった。1978までの暫くのあいだはロンドンもニューヨークも車座になって兼松講堂の屋上で回し呑みされていたのだ。諏訪瀬から帰ってきて葡萄園周辺に住んでいた6人くらいのヒッピーを軸にその6年後のマヘルも構想されることになる。さらに言えば、屋久島に行ったときに知った三省にとってのヒメシャラの木のように、歌い継がれている三省の詩「二月の雨」は、西東京のブルース・トラディションを即興演奏に応用するというblues du jourのフォーマットを通して自分の木になった気がする。
(終)
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