The high way for the king of irony Arbeitsjournal

サボテン
Arbeitsjournal
2025年2月10日更新

The high way for the king of irony
(The 49 Americans “Wonder”のライナーノーツに掲載)


工藤冬里



ある朝、簡単なベースラインとリズムを思いつく。世界はすべてうまくいっているように見える。1979(注1)。録音を手伝ってくれそうな人に片端から電話する。初めてのことなので、音楽家も非音楽家も未分化のマーマレード状態のまま、楽しく演奏を終える。わさとロックンロールをやってみようよ、と誰かがいう。それも楽しい。アメリカ人て面白い。とくにあの巻き舌のrの発音。誰かが真似して皆爆笑する。組織論が宴会のなかに溶解し、パーティーそのものが歩いていくような希望に満ちたファースト7インチ・シングル“Wonder only 85 pennies”は、すべてのバンドが一度は持っていたあの輝かしさに満ちている。しかし彼らはまだこの時点では素人のなかにも音楽家と非音楽家がいる、という厄介な事実に気付いていない(注2)。
彼らのもとにフリーミュージックを渡り歩き、ポーツマス・シンフォニアにも飽きたおじさんたちがやってくる。面白そうなことを嗅ぎ付けることにかけては危機的なほどに貪欲で、ホースを振り回す音だけでLPを作ったりする人たちだ。彼らなら、音楽家と非音楽家の合奏という作業を維持する秘密を知っているかもしれない。レインコーツのようなリズム上の秘密をもたない49sにとって、ミュージカルに仮託するというファーストLP “Wonder”のやり方は賢明な選択だった。そこでは、音楽家と非音楽家が互いに向き合うことなく、その視線を劇の一点に向けることができるからだ。音楽家と非音楽家はここではシャーベット状くらいには溶け合っている。彼らの“ミュージカル”を聞いていると、衝動的な騎士(という音楽)も親切な騎士(という音楽)も結局は世界というドラゴンに食べられてしまうという寓意にからめとられ、うまいとかへただとかいう演奏性の問題をいつのまにか不問に付してしまっている自分に気付く。だから当時のこちら側の耳たちにとっては幸福なアルバムなのだ。この物語にハッピーエンドはない、と道化が言いつつカセットデッキのストップボタンを押すように劇のジ・エンドを宜言するのを聞くと、これは逆説的に自分たちが奪還した音楽のハッピーエンドに言及しているのではないか、などと深読みしてしまうほどに。

しかしかならず終わりは来る。次の12インチ・シングル“too young to be ideal”で、本格的にロック・ミュージカル方式を採用したとき、彼らは「売れる音楽をつくるということについての音楽」を作ることによって当面の売り買いの問題から自由になろうとしているように見える。日本では自主製作で700枚売れれば100万くらいは儲かる時代だった。こんなかんじでこのやり方でこのまま皆で永遠に楽しくやっていられたら。黄色やみどりの奇妙な明るさのなかにテキストは置かれているが、散見されるサクセス、スターといった言葉に、躁の足下に寒冷前線のように食い込んでくる無意識の苦渋を見る。その苦さはセカンド・アルバム“we know nonsense”に風化する岩塩の層のように繋がっている。アマチュアリズムを誇ろうとしている自分に気付いたら、もはやナイーヴではいられない。その道の先にさらに新しい場所があるかのような不確かな希望を抱き、彼らは、いくつか未整理のまま、世界に向けて見切り発車しようとしている。世界は彼らに和解を装った刺客を差し向け、彼らはあきらめつつ決闘の場所に近づいていく。すなわち仮面というより肉化しつつあるクリシェを用いて、全面的に「わざと」ポップソングをやろうというのである。楽器のできない音楽家たちは地震前の小鳥のように去り、辛抱強さ、親切、といった特質を培ったかに見える音楽家たちが、楽器のできる非音楽家たちと共に表面は和やかに楽曲を奏でることになる。しかし光り輝く忍耐という殻でみずからを鎧い、真のironyを知る騎士は、we know nonsenseなどとは言わないものだ。護ってゆくべきは最初の朝の、あのベースラインとリズムではなかったか。人がどうこう言えることではないけれど。


(注1)1979 彼らは一見ゴッズ(The Godz, 1967-, ESP)のようなやり方の、イギリス的展開のようにも思えるが、1979には、当のアメリカではすでにエアウェイ Airwayが60年代を手製のサンプラーというコンセプトによって電気的に新しくして、80年代の日本の音楽好きな非音楽家たちに繋がろうとしていた。東海岸ではイーノがノー・ニューヨーク一派を対象化して終わらせてしまっており、メイヨ・トンプソン流儀の人々がその落穂を拾っていた。スーサイドがシェフィールド・ツアーによって撒いた種が萌え出していた大英帝国では、パンクの余波で、どんな音楽でも、たとえゲロとゲップの音だけの合唱団のLPでも出せる時代になっていた。ラジオでかからなくてもトーキョーロッカーズが買ってくれるのだ。そのトーキョーでは喫茶店で灰野敬ニが若い奴らに、「いいかい、バンドっていうのはやり始めてしばらくたつとだんだん洗練されていくのが多いわけだけどそれじゃだめで、逆にどんどんめちゃくちゃになっていかなくてはならない」などと説教していた。

(注2)ここでいう音楽家とは、楽器が弾ける弾けないに関わらずメロディーが不可避的に空から降りてきてしまうタイプの人間のことをいい、非音楽家とは楽器が弾けてもインスピレーションとしてのメロディーの訪れはない人のことをいう。どちらが偉い、という話ではない。片方にギフトがあり片方にはない、というだけの話だ。たとえばセリーヌの小説のなかには、メロディーが浮かんできてしまうことについて一生懸命説明しようとしている場面がある。セリーヌは、だからほんとうは音楽家だったのだ。音楽家が音楽家にスコアを押し付けると悲劇が起こる。音楽家には自由にやらせなければならない。あるいは楽音以外の部分を任せてしまえばかえって相手も楽だ。非音楽家にはスコアどおりにやってもらえる。彼は自分のメロディーに固執しないから、他人のスコアを押しつけられても純粋にそれを楽しむことができる。あるいはレッド・クレイオラの ‘Free Form Freak-Out’ のように楽音以外の要素を担当してもらえばすっきりする。そう考えると音楽家と非音楽家が平等に出会えるのは楽音以外の場所のみ、ということにもなる。たとえばタージ・マハル旅行団のフォーマットを見よ……。その人が音楽家か非音楽家かをどうやって見分けるかについては、興味深い報告を読んだことがある。音楽家は右脳を使うので左目の方が大きかったり、左の眉のほうがつり上がっていたりする。セリーヌの顔を見てごらん。左顔である。それに対して非音楽家は左脳を使うので右顔である。だから右目の大きい人は政治家や役者に向き、左目の大きい人は音楽が浮かんできてしまう人である可能性が高い。ちなみに左右対称の人は画家らしい……。何が言いたいかというと、人にスコアを押し付けようとするときには、その人の左右の目を見ればいい、ということだ。その方式でやったらThe 49 Americansはもっと続いただろうか。


(この文章を書くにあたって、79年当時のことを無理矢理思い出させてくれた倉本高弘さんと、資料を提供してくれた澁谷浩次さんに感謝します)


(終)


トップにもどる