G-Modern 書簡インタビュー Arbeitsjournal

サボテン
Arbeitsjournal
2025年3月1日更新

工藤冬里 書簡インタビュー
(“G-Modern vol. 7, ’95 Winter”に掲載)


質問作成/柴山伸二、高橋幾郎、G-Modern編集部



古くはノイズの『天皇』から現在制作中のマヘル・シャラル・ハシュ・バズのアルバムに至る工藤冬里の作品の基調は心の怯えである。誰もが何かしら抱いている筈の心の中の弱い部分、そして工藤自身のそれが乾いた感傷を伴って、或いは棘々しい皮肉をこめて様々な音の形で示される一連の作品はその非凡な才能に裏打ちされている。それは人をひきつけて止まない美しい力たり得ているが、恐らく工藤はそれ以上のものを期待していると同時に、音楽等(ましてやロック等)では誰も何も救えはしないことをよく分かっているに違いない。彼がニヒリスト的言動に拘泥したり、ウエットに絡みつく表現を嫌ったりするのはそのためだろう。他人の期待はおろか自分自身をもはぐらかすかのように余韻を断ち切る彼の作品は聞く側に中断された音楽の完成を委ねる。それは裏を裏返しにされた優しさの反映ではないかと私には思える。一見無雑作に、実は入念に狙いすまして放り投げられる工藤冬里のピアノやギターのコードは音楽に一番近い場所に届いている筈だ。そしてそれを拾い上げてあるべきところに置いてやるのも、踏みつけていくのも、すべて私達の自由なのだ。
(なお、マヘルのアルバムは当初の予定より完成が大幅に遅れており発売は現時点では95年春以降になる見込みです。予約者ならびに関係者の方々にご迷惑をおかけしていることをお詫び致します。予約受付は現在も継続中です。詳細は本誌3号をご覧下さい。)

オルグ・レコード 柴山伸二



Q. 1
工藤さんにとってロックとはどういう意味があるのですか? また、それとジャズとの関係についてお答え下さい。

ロックに対する熱心さが高橋を喰い尽くしている
高橋はロックに献身した男として僕に挑みかかる
その質問はロックの祭壇から発せられる香のようだ
コンサートやロック雑誌が高橋の祭司である
高橋は犠牲を携えて祭司のもとに行く
犠牲の血が祭壇に振りかけられ、
脂肪が焼き尽くされることによって、ロックとブギーの
  背後にいる光の使者を装った悪魔がまずその食卓で食べる
次に祭司はその家族と共に、高橋が携えてきた犠牲
  の胸と右脚を分け前として食べることによりその食卓に与える
最後に高橋はその供与の犠牲の左足を食べることにより、
  その食卓に与えることになる
確かにその食卓で自分を養い続けている高橋はまさしく
  食事の席に臨まざるを得なくなるだろう
ただし食事に与る者として臨むのではなく、高橋自身が
  主料理として供されるのであり、
  それを実際に食べるのは鳥である
僕は今すぐロックをやめるよう高橋に警告する。
  ヘビーメタルだけが父母殺し至るのではなく、
  ストーンズ系からノイズに至る全てのロックがそこに行くだろう
僕はロックとブギーの核心を見たのである


Q. 2
故間章氏は工藤さんにとって何だったのでしょうか?(ニヒリズムの超克とは?)

即興の問題を解決するには、即興に割く時間を減らすこと以外にありません。その様にして即興をあるべき位置に戻すのです。来るべき地平を先取りした即興等というものはありませんし、即興に希望の原理は認められません。即興と霊的進化論を結び付けたのは全くの無意味でした。多くの人は浮くためにあらゆる努力を払います。しかし自由は得るものではなく与えられるものです。将来敵である死が無くなった時に即興は初めて完全性を帯びるでしょう。


Q. 3
工藤さんはどうして執拗にオリジナリティーに拘泥するのでしょうか? そして工藤さんの考えるところのオリジナリティーとは? それはひいては自分に自信が持てないということなのでしょうか?

とり。
鳥たちは何故歌うのか。その歌には何か意味があるのか。鳥たちはどの様に自分の鳴き方を覚えるのか。
 一番活気があるのは朝と夕方のコーラスだが、聞こえてくるのは殆どが雄の声である。その声には◯◯の様に2重の意味が含まれている。他の雄には、縄張りを横切らない様にとの厳しい警告になる。◯◯◯◯の様な雌たちにとってはそれは結婚適齢期の雄からの誘いなのである。鳴き鳥は◯◯◯◯における様に自分たちの区域特有の歌を作る。これは、一つの言語でもなまりがあるのと似ている。方言とも言えるその独特の求愛の鳴き声は、雄の縄張り内の◯◯◯◯の様な雌にしか訴えない。一番元気で複雑なさえずりを聞くことが出来るのは繁殖期である。◯◯◯の様にこれは雌を引きつけるためのショーなのである。
 雄は声の調子で、◯◯◯◯の様に仲間に自分の存在を知らせるが、それによって敵に自分の在在を知られることになる。それで、◯◯◯の様に鮮やかな色の鳥や開けた場所を好む鳥は、賢明にも、不要な注意を引く様な喧しい鳴き声を立てない。一方、◯◯◯◯の様に迷彩色の鳥や密林の中に棲息する鳥は、見つかる危険が少ないので思い切り大きな声でさえずることが出来る。
 小鳥たちの鳴き声は、時には本当の意味での歌声ではなく、◯◯◯◯の様にただ他の雄と交信するための、或いは◯◯◯◯の様に群れをまとめるための短い合図であることもある。差し迫った危険を知らせる警告であったり、◯◯◯◯の様に猫や他の侵入者を集団で襲うための集合の合図であったりする。鳥たちは◯◯◯の様にその鳴き方で、怒り、恐怖、動揺等の気持ちや、自分たちがつがいかどうかを伝達する。
 鳴き鳥の発声能力には驚くべきものがある。或る鳥は◯◯◯◯の様に一度に3つないし4つの音を出すことが出来る。◯◯ァ◯・◯ー◯ーの様に1秒間に80もの音を出すことが出来る鳥もいる。人間の耳にはそれらの音は、一つの連続音の様にしか聞こえないが、◯◯◯◯◯の様に鋭い聴覚を持つ鳥たちにはそれを意識することが出来るのである。
 研究者たちは鳥に音楽が理解出来るのかどうか考えてきた。鳥はバッハのオルガン曲とストラビンスキーの「春の祭典」の違いが分かるのだろうか。研究者たちは4羽のハトに音楽を聞かせ、2つの円形キーのうち、その音楽の作曲家の方の円形キーをつつくとその褒美としてえさを与えるという風にして、それらのハトを訓練した。しばらくすると、ハトは20分のバッハの曲のどの部分でも聞き分けられ、正しい円形キーを選ぶことが出来た。ほんの僅かな例外を除いて、他の作曲家の同じ様な形式の音楽でさえも正しく選択することが出来た。
 熱帯に棲む或る種の鳥は、自分で作曲して◯◯◯◯の様にデュエットで歌うことさえ出来る。◯◯◯◯の様につがいで練習会を開き、交互に歌う形、つまり呼びかけと応答の形をとる自分たち独自の曲が出来上がるまで、色々試している様にみえる。その鳴き方は◯◯◯の様にとても正確なので、一般の人の耳には1羽の鳥がひとつの歌を歌っているかの様に聞こえる。お互いに相手のパートを歌うことも出来るし、相手がいない時には1曲を全部独唱することも出来る。この独特の能力は、◯◯◯◯の様に生い茂った雨林の中で自分の相手の居所を捜し当てたり、確かめたりするのに役立つ様である。
 英国の或る科学者は、数羽のウタツグミの鳴き声の中に聞き慣れた音があるのに注目した。鳴き声を録音して電気的に分析してみると、驚いたことに、英国の多くの家庭に普及している、電話会社テレコムの電話の呼び出し音に非常によく似ていたのである。ウタツグミは電話の呼び出し音を聞いて覚え、それを自分のレパートリーに加えた様である。ウタツグミの鳴き声を聞いてうっかり電話の音を作曲してしまう◯◯◯◯の弟子がいたとしても不思議ではない。
 鳥がどの様に鳴き方を学び、また作りだしてゆくかについてはまだ研究の段階にあるが、一つのことは確かである。即ちその方法は多種多様であるということである。
 スズアオドリの雄は、生まれる時までには◯◯◯◯の様に脳の中に鳴き方が少なくとも一部植えつけられている。◯◯◯◯の様に他の鳥から全く離されて育てられても、その鳴き方は普通のものとは違っているとはいえ、それでも音の数は同じであり、長さも普通の鳴き方とぽぼ同じである。しかしその型を正しく発展させてゆくためには、◯◯◯◯の様にまず自分が歌える年齢になる前に雄のスズアオドリの鳴き声を聞き、次の春にもまた聞く必要がある。それからこの鳥の歌い手は人間のプロの歌手と同様、練習に練習を重ねて業を磨かなければならない。◯◯◯◯の様に自分の若い声を自分が思っている音と合わせる様何度も何度も練習する。
 ユキヒメドリはもし本来の鳴き声を聞くことが無ければ、◯◯◯◯の様に独自の鳴き方を作り上げる。しかしいったん素朴で簡単なユキヒメドリのさえずりを聞くと、◯◯◯◯の様に自分の鳴き方を止めて他のユキヒメドリと同じ様に鳴く。ところがメキシコユキヒメドリは、ユキヒメドリの成鳥の鳴き声を聞くと創作意欲を刺激される。聞いたことを模倣するのでは無く、◯◯◯◯の様にそれに刺激されて自分独自の鳴き方を作り上げるのである。
 或る鳥たちの鳴き方が遺伝子に組み込まれているという最も強力な証拠は、「託卵」である。例えばクロカッコウは◯◯◯◯◯の様に自分とは違う種類の鳥の巣に卵を産んで孵えさせ、育てさせる。孵化したカッコウのひなは、自分が仮親と違っていることや、仮親と同じ鳴き方をすべきでないことをどの様にして知るのだろうか。カッコウにはカッコウの鳴き方がその誕生時までに脳にしっかりと植え込まれているに違いない。それで多くの場合、鳥の鳴き方は遺伝学上の問題の様である。自分と同種の鳥のさえずりを聞いたことが無くても、他の種類の鳥の鳴き方をただ模倣しそれを受け入れる様なことはしない。ある研究者達は、鳥の脳に本来の鳴き方のぼんやりとした型が組み込まれていて、聞いた事柄を検討し、◯◯◯◯◯の様に一番似ている様に思える型を模倣するのではないかと言う。
 鳥は◯◯◯◯◯の様に作曲者そして模倣者としての素晴らしい脳を持っている。自然科学者のフェルナンド・ノッテボームは鳥の左脳と右脳がそれぞれの特定の役割に応じて機能していること、また脳の中で鳴き方を覚える働きをする特定の部分があることを突き止めた。発育中の雄のカナリアのこの部分は、求愛の時期の到来に備えて◯◯◯の様に新しい節を覚える必要があるかどうかに応じて大きくなったり、縮んだりする。カナリアは◯◯◯◯の様に早い時期から歌うことを試みるが、8か月ないし9か月にならないと◯◯◯◯の様に一人前に歌う様にはならない。
 主旋律を変化させるのが得意な鳥もいる。◯◯◯の様に他の鳥の鳴き方を拝借してそれに磨きをかけたり、音の順番やリズムを変えたりするのである。昔から人々の興味の対象となってきたのは、物真似の上手な鳥、とりわけ「話をする」、つまり◯◯◯◯◯の様に人間の声を真似る能力のある鳥である。鳥の世界のそうした模倣者には、オーストラリアのコトドリ、ヨーロッパのヌマヨシキリやホシムクドリ、北アメリカのオオアメリカムシクイとマネシツグミ等がいる。マネシツグミのレパートリーは何十もあり、カエルやコオロギの物真似もその中に含まれる。実際マネシツグミが、よく知られている鳥たちの典型的な鳴き声を部分的に真似たメドレーを、◯◯◯◯◯の様に朗らかに歌うのを聞くのは面白いものである。
 一つのことは確かである。即ち作曲そして模倣の方法は多種多様であって良いということである。


Q. 4
工藤さんは91年のマヘル・シャラル・ハシュ・バズのレコードの付録では三十歳にして他者との関係性に目覚めたということを自ら綴っていましたが、それではマヘルにおけるメンバーとの関係は大将と兵隊という図式に収まる様なものだったというのですか?

鈴木卯多は毎晩居酒屋「たぬき」に現れると焼き鳥を1本注文してカウンターに百円玉を1枚置き、閉店までそこに座っていた。昼は路上で彼女がスカートの中に土を入れ、エプロンを包む様にしてそれを自分のアパートに運んでいるのを見ることが出来た。部屋に着くと畳の上にどさっと土を投げ出す。畳の上にはちり紙や雑多なものが散らかっているが、それは絶対に動かしてはならないものたちであった。窓は絶対に閉めてはならなかった。吹き込む雨で僕の貸したフェンダー・ローズは錆びていった。彼女は周期的に泣きながら、「お金をお払いしなければ」と電話してきたが、誰かが心配して電話すると、「あなたと私と何の関係がある」といった木で鼻を括った様な対応をするのであった。彼女はスタジオに現れると、渡された楽譜を練習することもあれば、じっとしていることもあった。じっとしていた時は後で、「私は工藤さんにいじめられました」と皆に説明するのであった。彼女はスティーヴ・レイシーが好きで、彼の話の中で、波と共演するくだりが特に好きであった。彼女はバンドの中では篠田昌巳より完全に格が上で、篠田も口癖の様に、「あの音はちょっとやそっとじゃ出ない」と言っていた。2~3回一緒に演奏した薫という女の子はその考えに反対で、「ソプラノっていうのは普通に吹けばああいう音になるの」と言った。それで僕は彼女にも敬意を表して《薫》という曲を作った。いずれにせよ鈴木卯多は《Black-Eyed Susan》《good-bye》といった曲において、信じられない様な音程の取り方でソロをとった。それは何と言うか空中でパイナップルが内側から開いて裂けた様な音色だった。今も彼女は病院にいると思うけれど、中崎のところに電話を寄越して、「最近曲が出来たので、マヘルはまだやっているか分からないけれど、演奏して欲しいので歌ってみます」と言って、ルス電に3音からなるメロディーを入れていった。それは僕がこの前山道を登りながら鳥とデュオをして、「こりゃあ人間と即興演奏するより遥かにいいや」等と悦に入っていたのと同じメロディーだった。
 他のメンバーとの関係についても同じ様な説明をしていくことしか出来ません。


Q. 5
他者とはどうでもいいものなのでしょうか?
(ノー・コメント)

Q. 6
工藤さんの考えているところの自分とは何だと思っていますか?
(ノー・コメント)

Q. 7
セックスは好きですか?
(ノー・コメント)

Q. 8
東玲子さんをどう思いますか?

1982年頃、四谷の坂町のアパートにいた時のこと、「この部屋は落ち着く、本を読む場所がないから使わせて欲しい」と言って、彼女が突然来たので、僕は部屋を明け渡して半日外を歩き廻らなければならなかった。部屋に帰ると彼女は「どうもありがとう」と言って5千円くれた。それで僕は当座の生活費を得た。何年かしてそのことを共通の友人に話すと、「あのケチな東玲子がそんなことをするなんて信じられない」と言われた。部屋に首吊り用の縄を吊っていたのが良かったのかもしれない、と僕は思った。


Q. 9
三谷さんが離れていったことに関しては、現在どの様に感じていますか?
(ノー・コメント)

Q. 10
灰野敬二さんを現在どの様に評価していますか?
(ノー・コメント)

Q. 11
マヘル~にとって三谷さんの果たしていた役割とその位置付けをして下さい。

僕はべーシストを探していた。三谷のことは篠崎順子から、「この前歌舞伎町で彼とすれ違ったけど、トム・ヴァーラインが歩いているのかと思ったわ」等と聞かされていて、首が長い奴なのかと思っていたが実際に見るとJ. ケイルなのであった。三谷と最初に話したのは六本木のインクスティックで、藤沢みどりの紹介だった。「彼は僕の《マンソン・ガールズ》という曲が気に入っていてよくテープを聴いているから、ベースをやってくれるに違いない」と彼女は言った。僕はその時商売のバンドをやっていて、トルコの召使いの恰好をさせられたまま客席で二言三言話した。彼とは青山の発狂の夜でレッドのバンドのゲストでボーカルをやったとき、既に一緒にやったことがあった。その時僕は《To Alan》というゆっくりした曲を歌ったが、彼はべースで、ギターソロの様なとても敵対的な早弾きを最後まで貫徹してしまった。高橋幾郎によると、彼はその頃ギターからべースに持ち替えたばかりだった。彼のギターは随分後になってから「特別ナイト」というソノシートで聞くことが出来たが、 1音のみのヴィブラートでテレヴィジョンの気恥ずかしさを茶道にしてしまった様な演奏だった。彼はスターリング・モリソンがいかにギターが上手かったか力説し、リチャード・ロイドが《Days》の案曲を導いたいきさつについて語り、僕に対してそういう者であろうとした。僕の前では遊びでも決してギターを弾かなかった。家ではいつも着流し姿で、笠智衆の真似をして「そうかい」と言って遊んでいた。僕は彼の家のトイレに置いてある『夜行』を読むのが好きだった。彼に録音を頼むと、テープの余白には必ずクリス・スペディングの《ギター・ジャンボリー》とかスティーヴ・ハーレーが入っていた。ルー・リードが出ている変な映画とか、ピーター・アイヴァースが司会しているケーブル・テレビとかを観るのも三谷宅においてであった。夜、居酒屋「たぬき」の前を通ると必ず、カウンターに座っている高橋と三谷の背中が見えた。ふたりが「電車で青梅に行ってきた」等と言っているのは『無頼の面影』というマンガそっくりだなと思った。彼は太宰が好きだったので聖書の勉強をしたがったが、「俺は“べからず集”が欲しいんだ」と言うのであった。彼はケム・ナンの『源にふれろ』まで読んでいた。僕は「この人は一生罪とじゃれ合うつもりなんだな」と思った。彼はコンピューターを使って難儀な装丁の仕事をしていた。『ヘヴン』の角谷の記事を見て上京してきたという位だから、白夜とかそういうところから仕事をもらってくる訳で、僕には言わなかったが、ずいぶんきついこともしなくてはならなかった。離婚して、新宿に共同でバッドナイスという事務所を開いたが、相棒が死んで、借金を背負う様になり、「五島列島で漁師をやる」などと口走る様になった。維新派という関西の劇団を手伝うのが気晴らしになる様で、頻繁に関西に出掛けていた。その頃彼の参加した最後のライブがゴスペルであった。彼はJ. J. ケールになっていた。僕はミック・ファレンの《火遊び》というジングルを彼にやった。彼は喜んで、「じゃあ今日はこういう心で」と言った。
 録音の際、柴山伸二は三谷のベースを大層褒めた。僕も彼が来なくなって自分でべースを録音する様になって分かった。最初に発狂の夜で演奏した時のベースには、彼の遺したソノシートのギターの1音だけのヴィヴラートの様な自意識が現れていたが、それがベーシスト特有の或る種の謙遜さの伴うテクニックを身につける際に、ある種利他的な切り捨て方をされなければならなかった経緯が、ベースの1音1音の音の立ち上がりに沈み込んでいた。彼がそうした作業を音楽の中で行っていた時、僕は自分の作業を音楽の外で行っていた。それで僕が作曲法について尋ねられ、「自分のためにではなくメンバーのために彼らが好きそうな曲を書く」と言った時、彼は悲しんで、「それは嘘でしょう、やはり自分の曲が出来るというのはそういうのじゃないでしょう」と言った。その後彼は事務所を閉めて、音楽と思っていたものの外に引っ越していった。最近は紅竜か何かのローディーでモンゴルに行って来て、また新宿に現れ、今は横浜の方に住んでいて、最近飲み屋の娘と結婚したらしい。


Q. 12
裸のラリーズを現在どの様に評価していますか?
(ノー・コメント)

Q. 13
メイヨ・トンプソンに対するライバル意識を語って下さい?

上等。


Q. 14
夫婦とは何でしょうか?

コミットメント。


Q. 15
マヘル・シャラル・ハシュ・バズの命名の由来を教えて下さい。

この名前の意味を知るには新宿の紀伊国屋に行き、カトリックのエルサレム聖書のイザヤ書8:3を立ち読みしなさい。そこには「speedy spoil quick booty」と書かれてあるでしょう。その意味は「分捕り物は素早く」と出ていますが、正しくは「急げ、分捕り物より(または分捕り物に急げ)! 彼は急いで強奪物のところに来た」です。この子供が「お父さん!」「お母さん!」と言える様になる前に、アッシリアの王がユダの敵であるダマスカスとサマリアを隷属させることになるというのがその預言的な意味です。今日で言えば、「アメリカ或いは国連がバチカンを潰す」といったことになります。私はアメリカにもバチカンにも属したくありませんが、音楽の分捕り物には少し興味がありました。サマリアでもアッシリアでもなく、サマリアからアッシリアに向かう船そのものになるなら罪は少ないかもしれない、とダンボール箱一杯の楽譜を前にして僕は勝手に考えました。今ではそれは間違っていたことが分かります。単にユダでバンドをやれば良かったのです。

Q. 16
マヘル~の音楽的特徴を示す言葉として工藤さんが用いる「ゴシック・カントリー」を分かり易く説明して下さい。

或るロシアの作曲家が、「自分のメロディーは罪を、和音は贖いを表している」と言ったことがあり、かつては首肯出来る様な気がしたものでした。例えば、ラジオの音楽に晒されている内に、オンリー・ワンズ風の甘いメロディーが浮かんできてしまったとします。そのままでは世の中そのままでしかないと思い、その気恥ずかしさを帳消しにするために、1つの不協和音をそこに投げ入れるならば、それは世と自分との距離を提示することになります。突きつめればメロディーに対する自分の位置の方がメロディーそのものよりも上になっていきます。シェシズやA-Musik等で演奏する時は、そのバンドと自分との距離を聴衆に理解させることを目指していました。メロディーを解体することや速度によってそれを乗り越えようとしたことも、音楽ではなく見当違いの懺悔でした。そうした濡れた目玉の様な張りつめた病的な歴史観は、ハーモニーとポリフォニーに対する誤った思い入れに基づいていたように思います。ユニゾンしかなかった単声の聖歌が複数の旋律を持つ様になった時は人が処刑される程の騒ぎとなった、しかし、その心を引き裂く乖離は進んでいった。そして通奏低音という考え方やゴシックの下部構造を形成し、ついにはロックのべース・ラインに至っている、という様に思えたのです。
 しかし初期の音楽は旋律だけで和声が無かった、という従来の主張の根拠は非常に脆弱です。クルト・ザックスは、「ハーモニーとポリフォニーは中世と近代の西洋にのみ与えられた特権であるという根深い偏見は、理屈に合わない。古代の西部オリエントには19世紀の歴史家たちが認めていたものとはかなり異なった音楽があった、ということを理解するのは大切である。その古代の音楽がどの様に聞こえたのかは分からないが、その音楽に力、威厳、支配力などがあったことを示す証拠は十分に揃っているのである」と述べています(『東西古代音楽の発生』、1943)。それでゴシック等といった言葉を使っていた内は、まだジョイ・ディヴィジョン止まりだったなと今では思っています。


Q. 17
工藤さんはこの10年間、マヘル~というスコアに基づいたアンサンブルと、即興主体のピアノ・ソ口を並行して続けていましたが、現在両者の関係をどの様に考えていますか?

ピアノ・ソロの方法は、カクテル・ピアノというユイスマンスのアネクドートに近いものです。そのピアノには、1音につき1つのリキュールが仕込まれていて、鍵盤を押すとそれが洗れ落ちる様になっています。それで、《月光》の曲を弾くならば、「月光のカクテル」が出来るという訳です。あるいは鍵盤の押さえ方はデッサンに近いものです。ある風景や人や物事に対応する1つのあるいは幾つかの音を探し、それらを押さえていく訳です。それで、ピアノによる即興は、転調のきかない自然描写です。そこに落ちついてしまうのは日和見(誰が? 誰に対して?)じゃないかという不安がかつてありましたが、自然に関する理解という面からものを考えることによって、個人的な事件としてのジャズの、消極的なリアリズムを抱え込んだ演奏家としての自分の手綱を取ることが出来る様になりました。
 毎月のグッドマンでは、その月に見た夕焼けや、その月に会った特定の人物を思い描きながら弾きました。実際にグランド・ピアノの中にその人を座らせて演奏したこともあります。その人は赤旗と白旗を持ってピアノの中に入り、或る基準に従って旗を上げたり下ろしたりしました。
 後200年位は思った音を選び取る工夫をして、それから後はコレクティヴ・インプロヴィゼーションのことも考えていきたいと思っています。
グッドマンで気に入っているのは、「塩山」というタイトルを後で付けたもので、仕事をクビになった日に塩山温泉に行ったというだけのストーリーですが、その描写の意図は、中央線が高尾を抜けた辺りの、山が迫ってくる感じをうまく表すことでした。片山健の『やまのかいしゃ』という絵本を読んで、似た感じを持ちました。
 マヘル〜とグッドマンのソロは随分違うので、聴きに来る人も分かたれていました。グッドマンには思いつめた様な暗い人がよく来て、半年位で入れ替わっていきました。


Q. 18
「ジャズ・ピアニストになりたかった」という発言の真意を教えて下さい。

僕は子供の頃、松山という町に住んでいました。美登利さんという、当時26才位でしたが、マル・ウォルドロンや浅川マキのコンサートがあると僕を連れ歩く人がいました。彼女は僕をニューポートというジャズ喫茶に連れていきました。ピアノを習っていたので、パウエル派のピアニストだったそこのマスターに弟子にならないかと勧められました。彼の方法はバド・パウエルをまるごと一曲コピーする、というものでした。それで14歳の頃店の隣のナイトシアター・パレスという歌手の墓場の様なクラブで、幕間にトラでピアノを弾くという経験をしました。東京から流れてきたうらぶれたバンドマンたちに混じって、他に何も出来なかったのでただブルースだけにしてもらって、なんとかギャラを貰えました。皆バークレーかジュリアードに行く様に勧めてくれました。山下トリオが丁度同じ日にニューポートで、「フローズン・デイズ」という大きなポスターで予告されていたライブをしていました。僕は自分のブルースの演奏をA面に、山下トリオのライブがB面に入ったテープをマスターの奥さんからもらい、何だか偉くなった様な気がしました。高校1年になって、僕はシド・バレットの《No Man’s Land》をコピーしたりする様なロック少年になってしまいました。ニューポートへは、隣のクラスの栗田さんという子が習いに行く様になりました。卒業後彼女は、松山のクラブで弾いたり、ジャズ・フェスティバルに出たりする様になりました。今でもバド・パウエルを聴くと、反射的に、「コピーしなければ」と身構えてしまいます。


Q. 19
いわゆる詩的霊感(スイート・インスピレーション)によって生まれる音楽というものをどの様に捉えていますか? またそれには何らかの力が備わっていると思いますか?

・gift.
・柴山さん自身がそう言っています。


Q. 20
工藤さんは以前スイート・インスピレーションを当てにするあまり生活の大半を音楽が占めてしまうという様なことは危険で愚かしいことだという意味のことを言っていました。それと工藤さんが現在人前での演奏を殆どしていないこととは関係があると思いますが、そのあたりの考えを教えて下さい。

音楽はたいへん好きで、人前で演奏することも好きですが、時間には限りがあります。一日には優先順位というものがあって、たまたま音楽がその日切り捨てられることはあります。そんな日には演奏出来ない、というだけの話です。欠けているものを自覚しているなら優先順位を設定出来ます。そうしないなら、流行歌と一緒に流されて行くだけです。


Q. 21
何らかの代償(例えば金銭)と引き換えに演奏したり、歌う時間を提供するという行為を(個人的に)否定しますか? また、それは何故でしょうか?

否定しません。音楽は一つの職業だからです。


Q. 22
「逆ピラミッド形のバランス」に関して説明して下さい。

紀元前10世紀頃の歴史(2 cronicles)、「そして……歌が始まり、ラッパも、イスラエルの王ダビデの楽器の導きの下に鳴り始めた」という一節があります。この楽団は、ラッパ、竪琴、弦楽器、シンバル、という編成でしたが、ラッパは120人もいました。それで、ラッパが「ダビデの楽器の導きの下に」あった、ということは、120人のラッパやシンバルが弦を凌ぐ様な仕方ではなく、補完する様な仕方で使われたことを意味している様に思われます。そんなことが頭にあるので、極端なバランスになる訳です。


Q. 23
現在、マヘル~の初めてのスタジオ録音は終了し、ミックス・ダウン中ですが、作曲者としてのレコーディングに関する意図、狙い等を教えて下さい。またそれは今回のレコーディングでどの程度達せられましたか? また、そのタイトル「Return Visit to Rockmass」の意味を教えて下さい。

暗礁への再訪問、或いはロックの塩柱
Return Visit to Rockmass
サマリアからアッシリアに向かう船が、明鐘崎で座礁した。1年後に訪れた喫茶「岬」から、昔のボサノヴァのLPの様な岩場が見え、『鬼火』の主人公の様に昔の曲を振り返ると、それらは次々と私の代わりに塩の柱になった。


Q. 24
マヘル~の最初のレコード(京都での実況録音)を現在振り返ってどの様に評価しますか?

それ程間違ってはいないと思う。
「間違える」ということが常に僕のバンドの特徴だった。演奏中コードが変わる度にベースのところに行き、指でポジションを押さえてやってから振り向いてギターのコードを弾いて歌い、コードが変わるとまたべースを押さえてやって、といったやり方をしない限り曲は演奏出来なかった。床にCからBmまでのコードを書いた大きな紙を貼っておいて、石蹴りの要頭で移動しながらべーシストにコードが変わったことを知らせる、といったこともやっていた。パンクにさえ馬鹿にされ、ミキサーに毛嫌いされるのが当たり前の様になってしまっていた。自分は音楽以前であって、決して他の人々の様に場馴れした感じでリハーサルをやる様なことは出来ない、と信じていた。その日にやる曲をリハでやってしまったりしたら、その曲はもう死んでいるのだった。それで、曲は星の数程あるというのに練習というものが出来ないバンドなのであった。だがあの時は京都に行ける、というので皆他所行きの気分になっていた。恥をかきたくないという気持ちが強くなってきたので、やり方を変えることにした。歌詞を重視してロックっぽい曲を選び、柴山くんのリクエストを大幅に受け付け、曲順も高校のとき見た上田正樹や大上ルリ子のステージを参考にして出だしは調子の良いやつをもってきて、とかいろいろ考えた。そういうのを考えるのはいつも三谷の役目だった。3回位スタジオに入って練習した。少しくらい曲が死んでも良いから恰好をつけたい、と思った。これで止めにしようとも思っていた。それであのレコードはそれほど間違っていない。でも酷いのもある。


Q. 25
マヘル~で歌われる歌詞には聖書をテキストとして作られたとおぼしきものが多く見受けられます。それらから私の様に無知な(ましてやキリスト教に関心の薄い)人間が受ける印象は、単に工藤さん個人の聖者研究・解釈の成果とするには棘が多い様な気がしますが、こういった受け止め方に関してはどう考えますか?

僕がマヘル~を高く評価しているのは、初めて自分の曲が演奏出来る様になったことと、歌詞が出来たことです。聖書の言葉を使うのは、それが「生きていて、(柴山さんが戸惑う程に)力を及ぼし、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、……関節とその骨髄を分けるまでに刺し通し、心の考えと意向とを見分けることが出来る(heb. 4:12)」からです。


Q. 26
「善悪をはっきりと見分けるために正確な知識を伝える必要がある」という工藤さんの主張に関して、もっと分かりやすく噛んで含める様に説明して下さい。

僕が二十歳の頃、付き合っていたのは皆三十過ぎの全共闘の世代でした。彼らは毎晩の様にゴールデン街に飲みに連れていってくれましたが、こうすれば中毒になる、とかこのやり方だと三十までには死ぬ、といったことは教えてくれませんでした。僕の友達はあまりにも多く死んだので、僕としては若い人に、こうすれば病気になる、とかこの音楽だとこうなっていく、といった正確な知識(エピグノーシス)を知らせてやりたいと思いました。こうすればこうなる式のことを言う年長者もたまにはいますが、白黒魔術の土俵の内側に人を誘い込む役割しか持たされていません。一人が襲って、一人が助ける振りをするが実はぐるで、というやり方で殺された女の子がいましたが、黒が襲って、白が助ける振りをするが実はぐるで、というやり方で若い人々は殺されていくのです。


Q. 27
次のアーティスト、バンドに関してコメントして下さい。

a. メイヨ・トンプソン

今回のライブの話は、世からの最後の切り札という感じがした。


b. オーティス・レディング

《ドック・オブ・ザ・ベイ》の、歌が始まった後に出てくる細いギターのテンションは効果的だと思います。


c. マル・ウォルドロン

《MAL4》が好きです。


d. シド・バレット

ワン・コードをカッティングして進んでいくスターズのやり方は、源から断たれた後のテクニックとして、目の前に物質の様にしてあった。床を無くしたダンサーが採るソウル・フードの様に、衰弱している魂には酷な食物であった。エネルギーから物質を生み出す人間のいかさまには魔術が関係する故に、そこは悪魔主義者たちの温床となってしまった。


e. ルー・リード

古代のイスラエル人にとって歌(singing)ではなく詠唱(chanting)の形式は、歌と語りの中間的なものであって、声の調子はやや単調で繰り返しが多く、リズムに強調が置かれていた。その用例は哀歌に限られていた。音楽の旋律よりも、あるいは単なる語りに抑揚や強勢を付けるよりも詠唱というフォーマットが望ましいのは、哀歌(dirge)もしくは悲歌(lamentation)の場合だけであった。現在を全て詠唱にしてしまうことで、曇らされ、べールを掛けられていくものがある。そこには慰めと諦めがあるが、希望は無い。宙空の一点から上と下に向かって成長し、最後に根が出来ることを期待する様なユダヤ人の現在は、種があって実が出来るという原則に抵抗するものである。ニューヨーク・パンクの、宙吊り状態の活性化という伝統は、彼に負うところが多く、背教者パティの詩編23編の朗読によって宙空から始まり、テレヴィジョンの《See No Evil》で岩の様に固まってしまった。ニューヨークで傍観者となってコーナーに佇むなら、瞬時に彼の作曲作法を理解出来るだろう。アラン・ヴェガのファーストに収められている街角のパレードの唄も同じ態度で歌われた例のひとつである。床の無いまま見切り発車して行くことについて、ポーは「情熱は尊敬されるべきである」と書いた。
 彼はずるく、今でも“between right & wrong”等と唄っているに違いない。


f. ピーター・ペレット
(ノー・コメント)


g. 裸のラリーズ

北の最果てについて正しい理解を得た今、あらゆる闇を通って来たという歌詞の滑稽さもまた暴露されてしまった。


h. 灰野敬二

彼はしばしば正しいことを言うがそれは彼自身の力で辿り着いたドグマに過ぎない。人の前には廉直な道であっても、後にその終わりが死の道となるものがある(pro. 16:25)。


i. 復活した早川義夫

《屋上》は素晴らしい歌だと思うが、彼の妻が幸福でないなら彼の歌など無くても構わない。


j. ジョナサン・リッチマン

マヘル~のメンバーだった岩田侑三はユダヤ人のジェシーと結婚して、フィラデルフィアで「エッセネ派」という自然食品店のマネージャーをしている。彼はマヘル~のライブのテープを編集してジョナサン・リッチマンの楽屋に持っていったら大変喜ばれた、と言っていた。ジェシーは「大抵のアメリカ人なら彼の歌詞には閉口する」と言う。


k. ロッキー・エリクソン

僕は国立市の谷保に住んでいるので、ヤホワ13と少し関係がある。M. ライゼル博士は「テトラグラマトンの発音は元来エフーアあるいはヤフーアであったに違いない」と述べた。ケンブリッジ大学のキャノン・D. D. ウィリアムズは「ヤーホーであった」と主張した。フランス語のスゴン改定訳には、「ヤハべという発音は確定的なものではなく、ヤボもしくはヤフーであったとも考えられる」という解説が載っている。ドイツのテラーという学者は、1749年に次の様に述べた。「シチリア島のディオドロス、マクロビウス、アレクサンドリアのクレメンス、聖ヒエロニムス、オリゲネスはヤオと書いた。サマリア人、エピファネス、テオデレトスはヤべ、ルートウィヒ・カぺルはヤボと読み、ドルシウスはヤハべ、ホッティンガーはエフバ、メルケルスはエホバ、カステリオはヨバ、ル・クレルクはヤボと呼んだ。」


l. ニール・ヤング

歌うべきことがあるかの様に歌い、弾くべきフレーズであるかの様にギターを弾くのは、体質によるもので、確信によるのではない、と思いたい。


m. アンソニー・ムーア

ロックが続いていれば彼は他人とは思えない存在であり続けただろう。


n. フレッド・フリス

あり合わせの素材でフルコースの料理を作るのは料理人の力量や実際的な知恵による。彼は人を素材として見ている。スタジオで、彼に「気持ちは分かる」と言われたことがある。素材の気持ちが分かるなら料理人にはなれるが、人を料理してどうしようというのだろうか。それよりも彼は演歌を作曲すると良いと思う。それを日本人に演奏させる。


o. トム・ヴァーライン

今は奇矯な感じがする。


p. スーサイド
(ノー・コメント)

q. 金子寿徳
(ノー・コメント)

r. 生悦住英夫

彼は音楽には力があることを信じており、その質問は音楽を共通の土台として意志の疎通を図ることを前提している。だが僕には、バンド、CD、ライブハウス、といった自明に思われることさえ不気味で異常に見える。佐藤隆史は全国から送られて来る悲惨なテープを聴かざるを得なかったお陰で、耳から膿が出たことがある。レコード店主は原発ジプシーより危険な仕事であり、強靭な力を持った彼の様な人によって辛うじて存続している職業である。


s. 三谷雅史
(ノー・コメント)

t. 中崎博生

中崎は僕や三谷や篠田とは違う文化圏の人間だった。彼はマイナーもタコも知らなかった。山谷争議団で接点がある位だった。彼は和光大学系のカウンターカルチャーの繋がりの中で生きていた。「休みの国」は彼にとって当たり前のバンドだった。奄美の無我利道場で1年間漁師をやっていたこともあるし、アジアを一人で行き巡っていたこともある。僕と中崎は小笠原建設で土方をやっていた時に知り合った。彼が言うには、僕はその時土方の恰好をして現場に来て、背広に着替えて仕事をしていたそうで、それを見て、「こんな生き方をしている人はさぞ大変だろう」と思ったそうだ。新宿の南口改札で日当を貰って、ハイチというカレー屋に行った。彼はユーフォニウムを持っていると言った。メイヨ・トンプソンの《Dear Betty》という曲の、ギターの細いカッティングと管楽器がぶつかる効果が気に入っていたので、それだけを狙ったバンドをやりたい、と申し出た。彼は『音楽の友』にコンサート評を寄稿する様なクラシック・ファンでザッパ・フリークだったが、音楽家ではないことはすぐに分かった。彼は楽譜と音の間に挟まれた学習障害児の様であり、他者の音は一切耳に入らなかったので合奏は不可能であった。それでマヘル~の満奏は全てレッド・クレイヨラの『ココナッツ・ホテル』となることが出来たのである。彼は国立会館という、戦後の進駐軍用の娼館だった木造の建物に住んでいた。彼の良いところは何人もの障害者の友達の世話をしていることや、食生活がちゃんとしていること、羊っぽいこと等である。


u. スヌークス・イーグリン

意識的な人であることは歌詞から分かる。例えば明らかにゴスペル調の、誰もが「down by the riverside」といった歌詞を期待するコード進行のところで、「俺は勉強したくない」等と歌う。


v. ブライアン・ウィルソン

『Kichen Tapes』のライナーを見よ。


w. その他
(ノー・コメント)

Q. 28
十代の頃はどんな音楽を聴いていたのですか?

1968年に10才だったが、それまで流行歌を聞くのを許されていなかったのが、ラジオを手に入れたので聴く様になった。歌謡曲の大歌手の声の質に含まれる共通の甘さや、マーク・ボランの声、ピアノで簡単なキーを叩きながらコードが進行していく晴々とした曲、ロックやドゥーワップと演歌の接点で歌う感じとか、《虹色の湖》の様な歌謡曲とロックの接点の感触とか、ボトル・ネックでカモメの声を出すところ、「……今日からは……」等というリフレイン、「雨にー 濡れなー がー らー」の、裏声と地声の境目をグリッサンドで通過するところ、線の細い女性が叫ぶ感じや線の太い女性が憔悴している感じ、ディランを真似する日本語の語尾の上がりかた、シャンソンの、がしがしした男の声、ロックバンドのイギリス的な感じとアメリカ的な感じ、それらのサウンドがラジオに付随したノスタルジーの断片となっていった。
 中学の頃、大学生のビッグ・バンドでピアノを弾いていたので、ベイシー、サド・メル、エリントン等に接した。そのバンドの中の何人かで、「エイトビーツ」という名前で、会社のビヤ・ガーデンや着物即売会の会場に呼ばれて《アンチェイン・マイ・ハート》といった軽音楽を演奏することもあった。僕は農協の2階で行われたある会社の展示会用のCMソングを作った。司会者がそれを客に歌わせようとしたが、誰も歌わなかった。僕のメロディーは、母が丸善で『ジョーン・バエズ・ソングブック』とか『PPMソングブック』とかを手に入れてギターで弾いていた関係で、童謡とトラッドが混ざり合った様なものになっていた。また父が鬼太鼓座のテープを録ってきたのを感心して聴いて、佐渡に行こうと真剣に考えたこともあった。地元の馬子唄を採譜したりすることもやった。貧乏だったのでレコード・プレーヤーは高校になるまで買えなかったが、民謡やサティーやフルトヴェングラーの全集物を揃えたりして聴いていった。
 ビッグバンドが「Clash」という名前でレコードを出したところ、彼らの大学のOBだった岩浪洋三という評論家が、「ひなびた感じがして良い」等と褒めてくれ、家に来て試聴盤を沢山置いていった。その中の編集物を聴いて、デルタ・ブルース、ラグタイム、ジャグ、ストンプ、50sのゴスペル等といった黒人音楽の歴史を知った。ウエストコースト、クール、バップ、スイングといった区別や、その当時のシャズの動向も大体分かった。朝はコルトレーンを聴いて、吹き鳴らされて空洞になった様な気がしながら学校へ行っていた。「仔馬」という大きな暗い噴水があってタンゴの流れている喫茶店があって、そこが一番好きだった。その頃から喫茶店が好きで、死んだら墓碑銘に「彼は喫茶店が好きだった」と書いてもらおうかとさえ思っていた。ジャズ喫茶でリクエストするのはスタンリー・クラークの《School Days》で、それは題が気に入っているからであった。


Q. 29
最近ではどんな音楽を聴いていますか?

0. 普段は何も聞かない
1. せみ
2. ラジオ
3. 妻の歌
4. とり
5. 人が好きな曲に付き合う
6. 人をもてなすときにジャズをかける
7. 自分のために無調のフレーズを繰り返す
8. ミキシングのとき自分の曲を聞く
9. 昔好きだった曲を聞く
 一日何十分にもならない様に注意しながら、ヴァイオリンなどの練習もなるべく時間をとって定期的に行う様にしている。


Q. 30
新作のレコーディングは終わったそうですが、いかがでしたか? 新作の内容について、レコーディングでのエピソード等をお願いします。

予定の半分位で録音を止めてしまったし、前にテープやレコードで発表して今度のには入ってないという曲も随分あるので、録音する必要の無かったそれらの曲をこそ聴いて欲しいという気がする。


Q. 3
どんな人たちに聴いてもらいたいですか?

斉藤旗志人くん
長屋福美さん

篠田のお姉さん
デヴィッド・トーマス


Q. 32
工藤さん自身はあまり売れたくないという様なことを聞きましたが、どうしてでしょう?

ユーゴスラビアで売れて欲しいだけだからです。


Q. 33
『Tokyo Flashback 3』に入っているテイクはとても良い演奏だと思いますが、工藤さん自身はどう思いますか?

《うつ病のくすり》のドラムはプロのスタジオ・ミュージシャンに頼んで叩いて貰ったので駄目かと思ったが、敵側の演奏にしてはまあまあだった。《諸国民の夜》はナッポが上手くボトルネックを弾いた。《イントロ~谷中》は鈴木卯多(ss)やアビバンダン(cello)の模範的なチューニングを聞かせるために入れた(チューニングで本番前に音楽が死ぬことがあるので)。


Q. 34
マヘル~のライブが見たいのですが、今後の予定は?

10月1日に国立の第3公園で「SOUNDMAP」というのをやりました。スケッチされた譜面を同封します。この様に楽譜が演奏の後出来るのであれば、宣伝も演奏の後で出来るはずです。


Q. 35
工藤さんのピアノ・ソロが見たいのですが、今後の予定は?

夏は長野の聖高原というところでピアノ・トリオで演奏しました。来年も呼ばれればやります。コードをうまく押さえる方法はあと200年位したら考えようと思っていますが、今でもただ弾くだけなら弾けます。グッドマンの客はいつも2~3人でしたから、聴きたい人がいれば、僕がその人の所に行くか、その人が家に来るかすれば良いと思うのですが、間違っているでしょうか。


Q. 36
Noise/天皇のCDでの再発の予定はありますか?

GAPの事務所でミックスしコジマ録音で作ってもらったのですが、元のオープンテープがどこにあるか分かりません。ジョン(・ダンカン)が作りたいなら作れば良いと思います。

Q. 37
もうシェシズへの参加は無いのでしょうか?

曲によってはまだ合奏出来るかもしれません。


Q. 38
日本の音楽状況についてどう思っていますか?

それ(日本の音楽状況)は自分に値しない、と思っています。


Q. 39
ソニーや東芝などのメジャー・レーベルから発売したいとは思いませんか?

発売してくれるとは到底思えません。


Q. 40
現在の音楽雑誌についてはどう思っていますか?

多くの書物を作ることには終わりが無く、それに余りに専念すると体が疲れる。(ecclesiastes 12:12)


Q. 41
現在の音楽評論家についてはどう思っていますか?

『ミュージック・マガジン』1980年9月の平岡正明「さらば、ヴィニシウスよ」は良かった。そう言えば最近色々な雑誌の読者投稿欄に「オイラ」と書く人が居なくなった。その頃の評論家達は皆すっかりおじいさんになってしまい、淡交を楽しみながら余生を過ごしている風である。後に続く世代は言ってみれば金正日であり、評価しろという方が無理な話である。


Q. 42
ピアノはどこのメーカーが好きですか?

EASTEINの茶色、バラの彫りものが3つ、ついている。


Q. 43
10年後の工藤さんはどんな活動をしていると思いますか?

・瓦礫の後片付け
・ユンボ等重機の運転
・まだ国立にいて、中崎や篠田や浩一郎と《スカイ・ハイ》を演奏している


(終)


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