辺境プロジェクト Arbeitsjournal
Arbeitsjournal
2025年8月14日更新
辺境プロジェクト
(「初見プロジェクト」2010年11月23日、七針)
工藤冬里
○過去の「辺境プロジェクト」
2010年7月17日 京都 cafe‘n’bar Paraiso
辺境プロジェクトというのは、誰も知らないであろう最新の外国語のライナーノーツを用意し、辞書を片手に誤読深読みして音源は聴かないまま音を予想して演奏してみる、というものです。西洋文化の受容は一握りの仲介者によって行われてきたから、語学力のない若い人々に幻想を与え、それが極端な表現を生んだ、というのが持論です。たとえばパンクの頃、ロンドン全体がパンク一色であるような幻想をぼくらは抱いたものです。でも実際は竹下通りみたいなところで起こった小規模なファッション運動に過ぎなかった。
2010年7月25日 中崎町 Common Cafe
中ノ島ヘル(初見プロジェクト)
ゲスト:高橋幾郎
2010年10月10日 京都 UrBANGUILD
w/n.o.n
工藤冬里ワークショップ 辺境プロジェクト
長谷川真子(以下長谷川):今日は工藤冬里ワークショップ「辺境プロジェクト」ということで……東京ではやったことありますか? ワークショップって。
工藤冬里(以下工藤):ない。
長谷川:はい、東京では初めての工藤さんのワークショップということになります。これから工藤さんにいろいろと、自分の音楽的なコンセプトなど話していただきつつ、みなで実際に演奏してみるというかたちで進めていきたいと思います。よろしくお願いします。
工藤:辺境という言葉は、今でこそみな使うけれども、昔はおもにアイヌと沖縄の人を指して、あるいはもっとアイヌより少ないギリヤークとかオロッコとか、そういう人たちのことをいってたのね。で、太田龍っていう、左翼の思想家がいてね、『再び、辺境最深部に向かって退却せよ!』っていう本を書いたのね。昔は、資本家と労働者階級に分かれて対立があるっていう考えが当たり前で、みんなそれでやってたんですよね。でも70年代になって、南北っていう考えが、つまり富んだ国と……別に何もできてないんですけどね。というわけで、何話してたかっていうと、辺境ですよ。
長谷川:これまでの辺境プロジェクトについて。
工藤:はい。1回目はね、去年の夏に焼き物の展覧会があって、そのときやったんだよね。
長谷川:阿佐ヶ谷で。
工藤:阿佐ヶ谷でね。あのときは、シェフィールドっていうイギリスの田舎町の、今の即興シーンの紹介の評論文が出たんですよね。デイビッド・キーナンっていう人の。それがおもしろかったんだけど、もちろん僕らはそれ[紹介されている音楽]を聴けないわけでね。聴いてないから、買えば別だけれども、ほとんどCDとか買わないからね……で、それでどんなのかなぁと思って、それを文章だけ読んで再現してみる、っていうのをやったんですよ。で、それを「辺境プロジェクト」って名付けたんですよね。だから、聴く前にやってみるっていうやつを。で、そうそう、そういうような受容の仕方というのをそのとき嬉しそうに力説したんだよね。ほんとはそういうわけではないんだけどね。
会場:笑
工藤:つまり、ぼくらは英語ができない、そんなに。ばかだし。それで、学歴がある大谷に(笑)訳してもらおうとしたんだけど、たどたどしかったんだよ(笑)。なんの話だったっけね。
長谷川:はじめの辺境プロジェクト、なんでそれを辺境プロジェクトと名付けたかをお願いします。
工藤:そうだね、日本の人は外国の文化を……『日本辺境論』っていうさ、内田樹さんって、るんちゃんのお父さんね。日本ロックフェスティヴァルをやってる人ね、そのお父さんの内田樹さんって人が神戸女学院の教授で、ブログおもしろいんだよ。で、その本が出たころだったんだよね。で、中国文化、文明っていうのを日本は受け入れて、漢字を訓読して万葉仮名とかを作ったりとか、つねに受身で外国の文化を自分なりに消化してきて、西洋文明も同じような感じでね。そうやってきたなかで、フリージャズとかの受け入れ方にも、そういう日本古来からのやり方が表れてるんじゃないかなという感想を持ったんです。そこにはキーワードが2つあって、ひとつは誤読っていうこと。もうひとつは、深読みということです。で、何でそれを考えたかっていうと、今年亡くなってしまった小山博人さんっていう、小石川図書館に勤めていたちょっとした先輩がいるんですけれども、その人といろんなことをやっていて、で、彼が言うにはね、いろんな本とかを読んで、そしてそこから理屈をつくるにしても、音楽家の場合は、間違っててもいいんだっていうんですよ。なにかを読んで、間違っていてもいいから理屈をつくったら、そのリアリティってものがあるじゃないですか。自信っていうかね。だから演奏するときにこう、基盤みたいなのができて、そういうものでやってるんです。どうせ(音は)言葉じゃないからね。思い込んでやるっていうのは、ある種執拗さがありますよね。間違ってても。エドガー・アラン・ポーっていう人は、「情熱は尊敬すべきである」というようなことを詩論のなかで言っていて、ある意味真実ですよね。でも、そういうことを言っちゃうと正しいイデオロギーを信望している人はなんだおまえ、って言うかもしれないけれど。結局はその思い込みの深さみたいなのが動かしてるんですよね。で、日本の場合はとくに、フリージャズの受容においてはものすごい深読みがあったんですよ。深読み。だから、外国では考えられないくらい、日本のある種の青少年の心を(笑)深くふかく、こう、鷲掴みにしたんだね。ある種、明治(時代)の若い人たちもそうだったかもしれないけど、70年代の若い人たちはね、即興っていう言葉にものすごい、神秘性っていうか思い入れを抱いたもんなんですよ。それで、デレク・ベイリーっていう人が、非常に、ジャズ史のなかで、「果て」だっていう考え方をしていたんです。みながみな。それで、「それ以上は行けない」っていうか、「すごい! デレク・ベイリー!」って。で、実際にデレク・ベイリーと間(章)さんが会ったら、ふつうにフォーレター・ワーズとかを連発するおっさんだったんですね。練習はいつもしてて、いろんなことを考えてはいるんだけれども、かれは、間さんが考えていたほどにその……こういう感じの(とがっている、というようなジェスチャー)人間ではなかったの。結構ふつうの、ふつうって言ったらおかしいけれど、イギリスのおじさんだったんだよ。ところが僕らは、そうじゃなくてもう、新しい人類……違う人類みたいな、ものすごい思い入れがあったんだよね。それで、だからおもに間さんのテキストによって、僕らはフリージャズの思い込みをすごい持ったの。それが辺境的な現象であったと。で、話はそのあとに続くんですが、その思い込みとか深読みで、こう若い人がキーっとこうなって(とがっている、というようなジェスチャー)、いろんなことをやっていって、そしたら、やっていくうちに、それが本家のヨーロッパとかアメリカとかの即興演奏の人たちよりも、そのエクストラオーディナリーっていうか、極端な表現になっていって、それが逆に10年くらいたつとおもしろがられて、逆にこっちからむこうに影響を与えるみたいな現象が起こってきた。また違う例ですけど、YMOとかもそうだよね。逆にヒップホップの最初のころに影響を与えてしまった。だから、変な現象が起こっていたんです。こっちが誤読と深読みでへんな極端な表現をしていくと、逆にそれが普遍性、とまではいかないかもしれないけど、珍しがられる。そういうような現象があった。で、そういうふうにして音楽が、外国と日本でこうやって回っていったと思える。だから、おもにその最初の太田龍の辺境論っていうのは途中で途切れたんで補足すれば、それは民族対立のことだったんです。つまり日本人がアイヌとか沖縄の人たちを抑圧していると。で、またアイヌの人たちもちっちゃい、ギリヤークとかをいじめていたとか、際限のない民族単位のとらえ方で、でもその一番いじめられている民族のところから戦っていく、というような思想だったんですよ。で、極端にいえば沖縄の人とアイヌの人が手を組んで、日本人を皆殺しにすればよいとまで言ったんだよね。竹田賢一っていう人がね。
長谷川:竹田さんが!(笑)
工藤:人を殺すとかあまり言っちゃいけないことだけれども、日本人は皆殺しにしてもいいんだって、本気でそう言ったんだよね。言ってた時期があった、が正確かな。でもそれは民族単位の考えで、行き詰まったんだよ。それでそういう民族単位の考え方っていうのは、いろいろ分化していくことになります。左翼の活動でいえば。エコになっていく人もいれば、陰謀論みたいなのになっていく人もいれば、もっと実際の救援活動みたいなのに向かう人もいる。ばらばらになっちゃったんですけど、だからその爆弾っていうのが挫折した時期だったんですよね。爆弾闘争っていうものがね。えっと、なんの話だっけ。辺境だよね。で、そうそう、阿佐ヶ谷でやったときはそのシェフィールドの即興の、今の誤読、深読みみたいなのはどうなんだろうね、っていう話をして、それでやってみた。で、その論文はデイヴィット・キーナンっていう人が書いたんだけど、すごい反響があって、その後3号くらいにわたって、“WIRE”っていう雑誌なんだけど、喧々諤々で……。
長谷川:ジェンダーみたいな話だったんですよね。
工藤:そうそう。だから重要な論文ではあったんだ。でもそれにしても、われわれ日本の論点からするとまだ上っ面の論議であって、そんな深いものではなかったよ。というような感想がちょっとあったんだよ(笑)。日本のほうがなんか思い詰めて、深くて暗いんだよ。フリージャズに関してはね。だからちょっとおもしろかったけれども、でもいちおうそのテキストを読んでやってみるっていうのを、1回目でやったんだよ。
長谷川:そうですね。
工藤:で、2回目はね、京都でやったんだよ。それは、今度はポーランドの即興シーンっていうのをやってみたのね。僕らはそれを知らないけど、長い記事があったの。それを読んで、こんな感じだろうと思って演奏してみて、で、その後、雑誌の付録に実際のポーランドの人たちの音が入ってたんで聴いてみたんですよ。そのとき初めて聴いて、違いにすごくびっくりして、おもしろかった。で、ポーランドの人たちがそのときやっていたのは、ギターとサックスの即興がドロっとしてて、で、あいだに急にあの、同じエフェクトを2つの楽器にかけるっていうのをやってて、それはたぶんいろんなフェスティヴァル系っていうか、即興のそういう集まりがありますよね。大友(良英)さんとかよく出るようなやつ。ドイツとかで。そういうなかの流行みたいな感じね。シーンの先端の部分を追っかけてる表現だと思うんですけど、その即興そのものよりも、全体を構成する……それはちょっとドイツ的と言ってもいいんですけど、ソナタ形式的といいますか、即興のなかに……(アコーディオンがとつぜん鳴る)うぅ!
田村:すいません(笑)
工藤:中間にその同じエフェクターの部分を挟んで、全体の音を客観的に対象化して捉えてるみたいな、突き放した(表現だったんです)。僕らはそれがわかんなくて、あーポーランドだったら、ショパンだな、暗い感じかなとか言って、ビーとかやって、全然……似てる部分もちょっとはあったんだけど、今のポーランドっていうのは、わりとドイツと地続きだし、そんなに変わっているわけではなかった。っていうのをやったりして、おもしろかったんですよね。だから、自分ががむしゃらにやみくもにわーっとやるんじゃなくて、そういうのを突き放して見ちゃって、それを作品として構成するやり方みたいなところに今いってるんだね。うん……今は、そうみたい。
長谷川:5月にやったときに、辺境プロジェクトがすごくおもしろかったんです。で、工藤さんが七針でやってみたいと言っていたところを、辺境プロジェクトでやりましょうとお願いしたわけなんですが……で、今回何をやっていくのかを聞きたいです。
工藤:今回は、英文、外国のテキストで、また新たな土地の……たとえば韓国の即興シーンとかありますよね。南米もあるだろうし。いろんなところを思い込みでやってみるっていうのも、それなりにおもしろいんだけども、これまでの経験でいうと、まあ今のイケイケな感じをみんな追っかけてるんだなっていうのがわかる程度の感じで、要するにグローバリズムということなんですけど、即興のなかでもみんな同じようなことを追求しているので、そういう人たちがフェスティヴァルを回っているという感じのことがわかるぐらいだから……。なので今回は、自分自身の辺境性といいますか、遅れているものですけれども、いちいち自分のことを考えて、なぜそういうふうに思い込んじゃったのか、みたいなことを、考えて意見をお聞きしたいと思って、そういう話をしたいと思います。
さっき大急ぎで考えたんですけれども、だいたい3つのことを言ったり、演奏したりするんですが、ひとつは、1番目はリアリティということなんですね。2番目がリズムのことです。リズムに関するへんなこだわりというのがあって、それがなぜなのか、という気持ちがあるんです。あとは今の流行の言い方でいうと、映像と音の関係ですね。こうやって、今投影されていますけれども(会場うしろの壁に、プロジェクターでカメラからの映像が投影されているのを指して)そういうのを考えなくちゃいけないとなぜ思い込んでいるのか? ということですよね。で、最初にやろうと思っていたのは、僕がやっているビデオのサイトがありまして、vimeoっていうんですけど、フランスのね。その説明をしたいと思います。
このひとまとまりのビデオは、「sweet inspiration armies」というタイトルがついています。これは1つのコンセプトのもとに集められたビデオです。最初からお話ししますと、マヘル・シャラル・ハシュ・バズというバンドの演奏、CDとかを聴いたことがある人はおわかりと思いますが、たいへん短い曲がたくさんあるんですね。2秒とか3秒とか。で、そういう曲というのは、車に乗っているときとか、寝起きとか、そういうときに思いついてしまうメロディであって、そういうのを今までは紙に書き留めて再現していたんです。で、それはずっとやっていたんですけれども、2007年に、“c’est la derniere chanson”というCDが出たんです。それは177曲入っていて、みんなだいたい短い曲だったんです。だから、そういうインスピレーションが来てしまうというのはどういうことかっていうのだけを主題にやってみたCDなんです。それでいちおうそのプロジェクトみたいなものは終わって、その後どうしようかと思ったんですけれども、その後にブログでラジオみたいなものが出てくる、音声ブログっていうのがあるんですよ。それに、そのころ持っていた携帯のICレコーダーで、思いついたときに書かないで、吹き込んで、それをアップしていくっていうのをやってみたんです。それが何十曲も……80曲くらい溜まって、それをいっぺんアップして、次の仕事っていうのでまとめちゃったんです。その後に、今度はデジタルハリネズミっていうビデオを手に入れたんですけれど、これなんですけど(カメラに示す)。ちっちゃい、トイカメラみたいなものです。これに、思いついたときにレコーダーとして吹き込むっていうのをはじめて、そのときに映像の内容は問わない、つまり目の前にある切り取りの風景がどんなものであれ(撮ってしまう)。ただ録音機材(のひとつ)として付加的な映像がくっつくっていうことです。で、映像史というか映画史というか、そういうものに対しても……傲慢な言い方ですね(笑)一石を投じるとでも言いましょうか、つまり映像の使われ方ではない使い方をし、なおかつ自分のインスピレーションというのを記録する、というのを、今までの合奏形式よりも生なかたちでアップする。つまり人に見せるようにしちゃうっていう。だから、このsweet inspiration armiesというシリーズが、c’est la derniere chansonの次の次のかたちっていうか、今のかたちで、自分のリアリティというものを可能なかぎり生なかたちで表現するという、そういうものなんです。でも問題は、なぜ僕がそのことを強迫観念のように思い続けて生なかたちでやんないとだめなんだ、っていうふうに思い込んでいるか、ということなんですね。それが本当は辺境プロジェクトの主題であるべきで、なぜ俺がこんなことになってしまっているのか、もっとちゃんとさ、工夫してこう、ポップなさあ、なんか……(笑)CMに使われるようなのをやればいいじゃないか!
その、なんでリアリティって言っているかっていうと、思い出すのは、小杉武久さんがルー・リードの『メタル・マシーン・ミュージック』というアルバムでライナーノーツを書いてるんですけど、ルー・リードも書いてるんです。短い文章を。それが……ルー・リードは自分の仕事を2つの分野に分けたんです。ひとつは、あのSunday morningの系列に属します。もうひとつは、Sister rayの系列です。だから、甘いメロディみたいなのと、ノイズみたいなわーっとしたやつ。2つながら私にはリアリティがある、みたいな。で、彼の文章というのが、「リアリティ、それが問題だ」っていう文章があって、で、僕は即興ということを……ジャズからきたフリー・インプロヴィゼーションのことをずっと考えていたんですけれども、ルー・リードの歌い方っていうのはそういう即興ではないんだけれども、たぶんこっちの思い込みなんですけど、即興性というものがあるんじゃないかと。つまりその場のバンドの音にあわせて音程をいくらか変えるとか、そういうことがなされているんじゃないかと思って、即興よりも即興性をいう態度がきっと重要なんであろうと、深読みして思い込んだんですね。だから、歌い方はそのつど変えるべきだし、歌詞も変えるべきだし。なんか……スポンティニアスでフレキシブルであるべきという、そういうふうに考えた。たぶん僕がリアリティとかって思い込んじゃったのは、ルー・リードのライナーだと思うんですよ。
長谷川:それ、いくつぐらいのときだったんですか?
工藤:高校のときですね。そっから、リアリティなんですよ。もちろんその理由をもっと広くみてみると、やっぱり資本主義とかグローバリズムとか、そういう話になっていくと思います。つまり、商売で作る曲が氾濫していて、辟易してたってことがあると思うんですよ。で、みな辟易してた部分があって、それでパンクとか起こってきたんですけれども、出だしのいやな感じっていうか、ちまたで流れていた音楽がとてもいやで、それを聴いてしまって耳に染み付いてしまって、鳴るっていうのがいやだっていうのが共通した出発点としてみんなにあったんです。そこから、いろんな人たちがいろんなことをしていくんですけれども、枝分かれしていったなかで、ひとつは「ごめんなさい派」っていうのがあるんですけれども(笑)、それはどういうことかっていうと、そういうメロディを弾いてしまって、ごめんなさい、って謝る音楽なんですよ。だから、ものすごい速さでその音楽を断片に解体して、で、加速度というものを考えて、スピードアップしてがーっと弾いていく。でもそれはいちおうはメロディの端くれは残っていて、それを解体して、全体の印象としてごめんなさいごめんなさい……というような。それは阿部薫という人がよく歌謡曲とか童謡を解体しますよね。好きなんだけど、めちゃくちゃ、ずたずたに切り刻むみたいな。そういうのってあると思うんです。あとはガセネタというバンドの浜野君という人はそういうギターを弾く人でしたね。あと、エリック・ドルフィーという人がその流れだと思います。バップのコード分割によるフレーズを極限までぐわーっと速く吹いてみせました。回転を遅くすればちゃんと(チャーリー・)パーカーになるんじゃないかな。やったことないけど。と思わせる何かがあります。そういう路線で、メロディは保持しながらも、解体していくという方向がひとつあった。
もうひとつは、ノイズに行くんですよね。楽器ができないし、だいたい、みんな。だからこうやるよりももっと、一足飛びに音速を超える。ほら、ジェット機って音速を超えて飛ぶじゃないですか。音速を超えるときにバーっとノイズがでるんですけど、ノイズっていうのは、スピードということに関してはメロディより速いわけなんですよ。そういうふうにして、ノイズでもって勝つのを目指す流れっていうのがあって、70年代の後半から80年代初期にそういうことをやる人がいっぱいいたんです。で、僕の場合その「ごめんなさい派」でもなく「ノイズ派」でもなかった。僕の場合は、「なんとかしよう派」みたいな(笑)。唯一親近感を持っていたのがスティーブ・レイシーという人で、彼はそんな速く吹こうとはしなかった。でも、ていねいに吹いてたね。だからなんか、立ち上がりと消え方を一音一音選んでいって、音程の取り方も社会との距離をひとつひとつ確かめるような。ごめんなさいでもなかった。そういう方向があるのかどうかっていうのを考えながら、僕はメロディをずっとやってきたんです。
だから、その元は、今言ってるのは、そういういやだなっていう感覚はみな共通して最初に持っていたはずなんです。今の人は持っているかどうかわからないけれども。で、今言っているのは、リアリティという話です。つまり、僕の辺境、自分への辺境ということで、自分が辺境的に抱いている思い込みのひとつが、何かリアリティということにあると。僕が即興とかで、技術もないし、ギターはむちゃくちゃにへただし……でもなんかやるときに唯一拠り所とするのがそういうリアリティ、つまり、メロディが訪れてくるなかで、いくつか「これは」というものがあるとして、そのリアリティというのは誰にも渡せないし、やりとりできない僕だけのものであって、それがある種の事実というか、自信というか、それだけでやっているようなところがあるんです。それ自体ももちろん、世の中の音楽の、ただスーパーマーケットで流れているような音楽の断片であるかもしれないけれども、1回なんかのフィルターを通してきてるから、それを拠り所にしてきたと。そういうことになっていると思います。
僕のその拠り所は、ほんとに残酷な言い方をすれば、明治政府がスコットランド民謡を学校に導入したときに、日本人のある種の、構造主義的にいえばですね、上のレイヤーを構成しまして、スコットランド民謡的なフレーズというのはもう、心の古層、古層というまではいかないけど、自分のものとして入ってきちゃってる。だから、グラスゴーのバンドとかが(日本で)うけるのは、結構響くところがあるからだと思うんですよ。スコットランド民謡のところに。だからなぜうけるかとか、そういうこともそういうふうに説明できてしまうっていうのは、すごい残酷なことなんですけど。
そういうわけで、リアリティが云々っていう話はおしまいで、次、その実際の映像を見ていただきます。そして、映像を見てからすることっていうのは、また別の話なんです。つまりそれは、バンドとは何かということなんですよね。つまり、僕が拠り所としているそのひとつのこの断片というのを人に伝えることがどういうことか、それは、ほんとはいけない、無理なことなのか、罪なことなのか、それともよいことなのか、わからないんですよね。でも、それを……(ビデオ1を再生する)これを、やってみてください(笑)。
(演奏1)
工藤:じゃあ、どんどん行きます。
(ビデオ2)
工藤:どうぞ!
(演奏2)
工藤:これが、さっきのに比べてなぜちょっと伝わりやすかったかというと……ロック史というものに共通のもの、背景が共通のものっていうのをみんなぱっとこう、予測してやったからだと思うんですよね。で、ずらすっていうことも予測してやったからだと思うんです。だから、伝わり方っていうのは既成のある種のジャンルとかの背景があるというふうに読んでかかっていくと、できちゃったりする感があります。でもそこからも外れていこうとしてる力っていうのがかならずあって、そういうのがどこまで伝わるかなんですよね。つまり僕と社会の位置を感じてる……
(ビデオ3)(笑いが起きる)
工藤:らんららーんら……(実演)そんなんでしたね。
(演奏3)
工藤:はい。これはたぶんある種、わりとわかりやすいメロディだな、っていう予想がついたと思うんですよね。ただ、歌い方が変だった。つまり、なぜ変だったかっていうと、これをぼわーっとぼやけさせる力が僕のなかにあって、そのままじゃいやだっていうことで、わかりにくくさせています。伝えたくなかったんですよね、きっとね。
これは、塩ヶ森……あ、これはいいや。さっき、今やったやつだから。じゃあ次にいくと……DJ泰山木って書いてあるビデオがあります(笑)。誰にも伝わらないはずです。では、どうぞ。
(ビデオ4)
(演奏4)
工藤:ありがとうございます。次は、粘土を作るという作品です。
(ビデオ5)
(演奏5)
工藤:これわかったでしょ。(ギターを手にして)僕もやりますから……。その、やってる最中、感想とかあったら言ってください。つまり、わかったような気がする、とかさ。全然わかんないとかさあ。僕はリアルなんですよ。歌ってるときは。でも今の僕は、僕自身でさえ、わかんないことがある。だからこの、このときの僕と今の僕は違うんですよ。だから、僕にさえ伝わらないのがいっぱいあります。こんときは本気なんですよ。でも……
(ビデオ6)
(演奏6)
工藤:……つまんなかったら言ってくださいね。やめますから。まだいっっぱいあるんですよ。どうしますか?
長谷川:今のだと、踏み切りの音が入ってたりするじゃないですか。それはやっぱり影響してるんですか。それをきいて、こう……。
工藤:そのリズムで、それをずらして、タタタタ……ってやってるつもりなんですよ。その微妙なずれみたいなのが、人に伝わるかっていうのを今、考えてたんですけどね。これはね、葉っぱをマジックで塗るっていう、非常に、葉っぱにたいしては悪いことをしているものです。
(ビデオ7)
(演奏7)
工藤:どんどんいったほうがいいのかな。いきます。
(ビデオ8)
(演奏8)
工藤:なんか感想を言ってくださいね。全然伝わらないとか、自分はちょっとわかる気がするとか。
(ビデオ9)
(演奏9)
工藤:ここはある種の、ループみたいな衝動がありますよね。次はね、焼き物の底を削っている。
(ビデオ10)
(演奏10)
工藤:つまんないって言ってくださいね。
(ビデオ11)
(演奏11)
工藤:(笑)すげえなあ。
(ビデオ12)
(演奏12)
工藤:ちょっとちがう。
(ビデオ13)
(演奏13)
(ビデオ14)
(演奏14)
工藤:むずかしいよ、これは(笑)。できないね。できないならやんなくていいからね。
(ビデオ15)
工藤:(笑)
(演奏15)
(ビデオ16)
(演奏16)
(ビデオ17)
(演奏17)
長谷川:やっぱりこういうロックっぽいかんじだと、わかりますね。
工藤:わかるよね。いまここ、こんときね、なんかジャーマン・ロック衝動みたいなのがあって(笑)。伝わるんだよね。そういうのって。でも伝わったのがいいのか悪いのかっていうのがあるけどね。わかりやすいんだよ、これは。バンドをやるってこんなんでさ、だって曲作ったやつがさ、こうやって持ち込むわけでしょ? で、こんな感じなんだけど、って。でもそれがわかりすぎちゃまずいし、わかんなくちゃまずいし、っていう。
(ビデオ18)
(演奏18)
(ビデオ19)
(演奏19)
(ビデオ番外)
工藤:これスーサイドの曲で、カヴァーです(笑)。これ、蝉の音をマーティン・レヴに見立てて(笑)。僕、歌ってるんですけど。じゃあ次の曲。今の、番外だね。
(ビデオ20)
工藤:楽譜と、うたと、全然違う(笑)。じゃあ次いきましょう。もうこのコーナーはやめたほうがいいかな。まだあるんだよいっぱい。どうしようかな……もうちょっとで済む。今日、昼にもやったんだよ。原宿のVACANTっていうところで。そこに行くまででおしまいにします。
(ビデオ21)
(演奏21)
(ビデオ22)
(演奏22)
工藤:函館……
(ビデオ23)
(演奏23)
(ビデオ24)
(演奏24)
工藤:わかりやすかったね。今までのなかで、マヘルで曲にできそうなのあった?(笑)
(ビデオ25)
(演奏25)
(ビデオ26)
(演奏26)
工藤:これで最後です。
(ビデオ27)
(演奏27)
工藤:あ、うまくいったね。これ、うちです。あとはね、今日、昼にやったやつなんだよ。これで、自分の辺境性についての一番、リアリティ、の説明。で、リアリティということをこんなところまでしてしまっています、ということと、それがなぜかっていうと、結局聴いたらさ、たいしたメロディじゃないじゃん。普通のさ、なんか、なんも思い入れがなくても弾けるような、どうでもいいメロディでしょ。でもそれが、たまたまそのときはすごい、こう中身が詰まったようなものとして、自分ではその気になってやってるんだよね。で、それが人に伝わったり伝わらなかったりする。で、なんか、社会に寄り添ってるやつはわりと背景が一緒だったりするから、伝わりやすくて、それでバンドみたいなのが成り立ってるんだけど、微妙なところでちょっとした工夫みたいなのがあるところが、どこまで伝わるかでずいぶん変わると思うんですけど。えーと、で、自分の辺境性、リアリティ篇は終わりました。
次はですね、リズムについてです。
まず、さっきのさ、ローランド・カークのやつ……1曲聴いてもらいたいと思うんですけれども。ローランド・カークっていう人の曲なんですけれども、たぶん、黒人のフューネラルっていうの、お葬式のときにマーチをするんですけれども、そのマーチのときのドラムが、3拍目が遅れるっていうのを聴いてください。
(曲がかかる:ローランド・カーク black and crazy blues)
工藤:中盤の4ビートのジャズになるときはそれが消えるんですけれども、前半の、太鼓の2つの音でドン、右手がボワンってやるときの、たまに遅れるように感じるのがわかった人がいるかもしれません。で、遅れないじゃないか、って思った人も同じくらいいるかもしれません。そこが不思議なところなんですけれども、僕はこれは黒人の独特な遅らせ方であって、日本人にはこの遅れはないんではないかというふうに深読みしたんですね。で、ブルースに、日本人のブルース、下北あたりでやっているブルースに足りないのはこれだと思って、それさえ自分が身につければどんなに下手でも勝てるみたいな(笑)。そういうふうに思い込んだ時期があって、今聴くと、どうってことない曲ですよね。でもある種、一瞬遅れて聞こえたんですよ、3拍目が。ドン……パンって。それを、律儀にといいますか、いまだにやっているっていうことなんです。
長谷川:いつ頃からですか?
工藤:10代ですよね。で、なぜずらしたいかっていう、またここの、なぜそんなふうに思い込んだかっていう理由のほうが大事なんですよね。僕個人がどうだっていうよりも。最初はだから民族的な、さっきの辺境論のあれがそうですけれども、黒人的なノリの違いが、僕らとの人種の違いっていうことで、人種で考えてました、うん。で、YMOっていうグループがね、そういう知識を盗んだんですよね、僕らから(笑)。だから、それをデジタル、リズム・ボックスでわざと遅れをセットして、それをYMOでは使っている。デジタルで、民族音楽としての黒人のリズム感を(小声で)帝国主義的に、略奪して……えーとですね、それから……なんの話してんだ。その、ずらす動機っていうのはだから、この曲が証拠となるはずなんですけれども、裁判にかければ証拠となるかならないかわかんないような微妙なとこなんですよね。で、それを思い込みたかった僕っていうのがリアルなわけです。で、ずらすっていうことを考えていくときに、とにかく辺境ですから、ずれていればいるほどいいってことになっていくんですよ。ずれは美である。旋律もずれていればずれているほど美である。リズムも合うと思ったとこがずれてるほうが美である。要するに極端に走るわけですよ。だから、シャッグスとか日本人だけでしょ、好きなの(笑)。そういうのにはまっていくと、逆に反動がきて、1拍子しかやっちゃいけないとか、もうリズムのことはものすごい深くて、絶対にもう極められない。そういう微妙なニュアンスとか。だから、まじめなバンドは1拍子しかやっちゃいけないって。それがその、三里塚でやったロスト・アラーフっていうバンドは、それを忠実にやろうとして、1拍子のバンドだったんですね。あとは、シド・バレットっていう人のギターのカッティングはきっと、あれはものすごく綿密に計算されていて、リズムの表と裏がはっきりしているに違いないって思い込んだんですよ。だから、シド・バレット・ファンっていうのはある種世界的な広がりがあって、悪魔崇拝的な人たちにまでものすごい神秘化されていて、リズムのカッティングに関して秘密を持っているはずだっていうふうに思い込んでる。とくに日本人は思い込んでいましたね。今考えるとそれはたぶん、2とか4とかそういう偶数の感覚ではなくて、そういう偶数を弾きながら奇数、今僕が考えてることでいうと素数ということですけれども、分割できない数、素数的なもので2とか4ビートとか8ビートとかを素数的にカッティングするということであろうと、今は思っていますけれども。なぜそういうふうに思っていったかといいますと、やっぱりその、世の中のフォーク野郎っていうものがあったわけですね(笑)。フォーク野郎っていうのは、どういうギターを弾くかっていうと。(実演してみせる)だからその、なんていうの、ナンも考えないでこうやってる。それがこう許せないっていうか。いくら歌詞がよくても2とか4のなかでやってると、なんかねぇ、だめだと思っちゃったんですよ。だから、意識が極端に走って、リズムがごつごつしてずれてりゃずれてるほどいいみたいな美学で、こうふつうの曲を聴くともうだめなわけですよ。で、どうせだったらば、ウィルコ・ジョンソンみたいに完璧にオンで、(実演する)ダウン・ストロークで完璧に1をキープするという意思がわかればそれは許される。そうでないならば、絶対に、(実演)こういう弾き方するのは日本人しかいないんです(笑)。
長谷川:日本人でもそんないない気がします(笑)。
工藤:そういうふうにしてリズムのずれというのが、僕の辺境性であるというわけですね。で、そのリズムのことを、さっきのローランド・カークもそうだったんですけれども……こちらの長谷川さんがやってるどろんこ雲っていうバンドがあるんですけれども、今はlos doroncosといいますけれども、どろんこさんっていう人が(裸の)ラリーズのベーシストだったんですね。で、サミーっていう人がドラムで。その、ずれてるように聞こえて、本人たちも、俺たちはわかり合って、目で合図しなくてもどこでずらすかわかり合えるんだぜ、みたいなことを豪語するんですよ。どろんこさんがね。だから、彼らがやっている西東京のブルースは、こんなんです。(実演)たまにずらすの。(実演)というふうに、僕は深読みしちゃったんですよ。だから、日本国内で、日本のヒッピーを深読みしたっていうことなんですね。で、これが西東京のブルースのトラディションであるというふうに、思い込みたかった。(実演)それでドラムも反応して、ジャズのようなインタープレイがあるはずだと思い込もうとした。ほんとはそうでもなくて、何も考えてないような気がします(笑)。それを僕はまともに考えて、ブルースということを使って……あ、きっかけはノー・ネック・ブルース・バンドっていうニューヨークの人たちの、ブルースを即興のフォーマットに使うというコンセプトでして、即興でやるんですけれども、僕はその国分寺あたりのブルース・トラディションを使った即興のフォーマットをつくるとかいって、blues de jourという演奏をよくやっていたんです。で、blues de jourというのは、いろいろ決まりのあるブルースの12小節の曲が……夥しい数がありまして、その日につくったメロディを提示してそれで即興をするというだけのものなんですけれども。似たような形式ですが、「塩ヶ森」という曲を最近よくやるようになったんです。それを、参加できる方が参加してやっていただければと思っています。そしてもうひとつ、「塩ヶ森」という曲で最近やっているのは、いちばん最初に言った映像と音っていうことなんですけれども、つまり、リアリティの問題について語りました。で、リズムのことを今話しています。で、3番目が映像と音の関係ということを、思い込みで僕は今やっている。今のビデオもそうですよね。映像に関してある種の思い込みがあるんで、音と映像の関係についてもいろんなことをしなくちゃいけないという強迫観念がある。そのことを「塩ヶ森」という曲でやってみたいと思います。つまり、今の時代っていうのは山口のほうの人たちがやっているようなmaxっていうソフトを使って、音と映像をある種のプログラミングでつなげるっていうことをハイテクでやりますよね。で、僕の批判というのは、つまりそのプログラミングが恣意的であって、本人の好みのプログラミングでこの音にはこの映像という対応、対応の仕方が非常に個人的な事件としてのみあって、ロック史としてなされていないから表現として弱いというふうに感じたんです。さっきもビデオでみんなで合奏してわかったのは、なんかやるっていうときは、その、ある種のロック史みたいなものに触れてる部分だとわかっちゃってやるっていうことってあるじゃないですか。こう、沸き起こった感じで演奏する瞬間が2.5か所くらいありましたね(笑)。それは、ロック史に触れたからなんですよ。なんか。わかる? ロック史……(笑)。で、そのプログラミングの部分を、僕らはパンクなので、人力でやるんだっていうことなんです。つまり、音と映像の関係、そこのブラックボックス的なところを、僕らお金がないからいちおう、人力でやる。映像にエフェクトをかますっていうときに、小山さんがやってくれますが、実際にこのような、(小山実演)人力でエフェクトをかけます。そのリズムがロック史的にずれるところに、映像をロック史的に(笑)エフェクトをかけます。で、すべては人力でなされ、そしてブルース・トラディション、幻想のブルース・トラディションに則り、辺境的な(笑)、ある種「果て」だと思うんですよ。つまり映像と音とブルースの思い込みの果て、をこれから聴きます。えーと、ベースを担当するひとは、(実演)ここで遅らす!
演奏:塩ヶ森
工藤:ちょっと違う……あのね、もうちょっと遅れがね、僕についてきて。いい?
演奏:塩ヶ森
工藤:はい、おしまい!(ラドミソシー)よくできました(笑)。えっと、このような極端なずらしかたは、辺境的っていうことなんですね。はっきりわかるでしょ、ずらしたって。でも、こんなことは誰もしてないんですよね。ブルースの人も、国分寺の人も。
長谷川:実際(どろんこさんのバンドに)入ってみて、してなかったですよ(笑)。
工藤:そうでしょ。で、そういうふうに、なぜ極端にずらしたいかっていうと、やっぱり自分の思い込みなんですよね。あまりにも下手だから、どうにかして自分自身のようでありたいというときに、ずらすんですよね、極端に。だから、全然根拠のない変なことになってますよね。民族音楽とも何の関係もない。ブルースでもなんでもない。ただそこで……でも目標としては、そういうずらし方をインタープレイのようにして、ドラムとベースでぱっと違うところをずらすとか、そういうふうにもっていくってつねにやって、永久にそこに行かないみたいなことがあるんですよね。で、ジャズはそれをずっとやってきたんですよ。もっと、極端ではないですけれども、ちょっとしたずれっていうのを、1曲のなかで何十回も、たとえば、チャーリー・パーカーとマックス・ローチとかの絡みをずーっと一生懸命聞くと、わかるんですよ。フレーズとドラムの絡みがね。そういうのをロックでやるっていうのを、それはまた思い込みなんですけどね。シェシズというバンドは初期はそういうふうなコンセプトで、ジャズのインタープレイをそういうふうに、ロックのバンドのなかで、リズムとかの応酬をしようっていうことで始めていたつもりなんですけれども、そういうのも辺境的な思い込みであろうというわけです。
あとは付加的なことですけれども、ルート音っていうのを今ちょっと実演でやってみたいと思います。つまり、ピアノというのは非常に近代的、西洋的な楽器であって、その、ドから始まるものだけれども、ある種のアフリカの人たちはルート音というものをもっていて、その日の体調だとかその気分によって、一番楽な姿勢で、低い音で「あー」って言ったときに出る音程が、自分のルート音というものだっていうふうな考え方で、そのルート音同士でユニゾンを……ルート音が集まってユニゾンで合唱をして自然とハーモニーになっちゃうみたいな、そういう音楽があります。それは、オーネット・コールマンのハーモドロディクスとなんか似てるような雰囲気があります。そのルート音っていうのも、ある種の思い込みで、チューニングはしちゃいけないっていう思い込みがずーっとあったんですよね。でも、中途半端なね、ふつうのロックの曲やるのにチューニングしないっていうのは(笑)、それもだから変でしたけど。で、ルート音についての話はこれで終わります。で、ルート音というのを今、自分で確かめてみていただきたいと思います。これから使うので。楽にして、「あー」って言ってみてください。その音程を自分で探して……
参加者:あー(ルート音を確かめる)
工藤:僕の場合はこの、A♭の音でした。ほかの人に影響されないで、自分のルート音を決めてください。あ、決まりました? ピアノも決まりました?(ピアノの音を聴いて)それは高いと思いますけどね(笑)。
最後に、最近考えていることをお話したいと思います。それは、偶然と必然ということなんですけれども、リズムの問題もいいましたが、2とか4とか8とかのなかで、素数的にふるまうことによって、ある種のビビッドな感覚が得られるという話は、シド・バレットのカッティングとかも例に出して説明しましたが、それは、素数的な振る舞いであるというふうにぼくは勝手に言っています。思い込みですけど。素数というのは、1とそれ自身以外では割り切れない数なんだそうです。だから、2、3、5、7、11、13、そういうものです。で、なんか、素数はすごいランダムなものだというふうに思われていたんですけれども、戦後にいろんな発見があって、テレビで見たんですけれども、ある種の、ウランとかの重い原子のエネルギーの放出の周期っていうか、間隔が、その素数の並び、ばらつきの間隔と同じだ、非常に似た式で表せる、というのがわかって、だから、何かものというのは……物質の成り立ちというのは素数的なものを核にしてつくられているということを、テレビで見たんです。そこでまたすぐ深読み、思い込みをしまして(笑)、たとえば今みんなルート音を確認しましたね。で、ひとりのひとは2拍子で演奏します。長谷川さんが2でルート音をやります。そして、鈴木さんが3拍子、3というもので演奏します。全然、合わせなくていいんです。自分の速さでいいんです。で、アコーディオンは5でやります。で、バイオリンが、7。タタタタタタタトトトトトトト(笑)。ピアノは11(笑)。トランペットは13。で、そうすると、勝手なループがそこで起こりますよね。で、それがきわめて偶然に近い響きになるだろうという予想です。で、その偶然に近い響きなんだけれども、ある瞬間、1拍目が合う瞬間がかならず来ます。数学的に。そこが隙間であって……あ、隙間っていうか、そこをぐさっと刺すみたいなことをしていくと、ある種偶然を必然に変えるマジックというか、そういうことが起きるんじゃないかなと思うんです。で、なんで偶然か必然かとか今言っているかというと、たとえば若いやつに「お前、今なんかやってみろ」と言って詰め寄ると、たいてい「わー」ってただ叫ぶだけなんですよ(笑)。役者のたまごとか。わかる? つまり、なんかやるんだったらば、その場で何か歌詞なり、音なり言葉なりをその場で、自分の意思で出せなければ男じゃないっていうか、女じゃないっていうか、なんかだめだっていう思い込みがあったんですよね。だから、24時間吟遊詩人でいなければならないというような強迫観念でできているわけですよね。で、それはでも全部意志なんですね。つまり、必然じゃないといけないっていうことなんですけれども……自分は焼き物をやっているんですが、よく考えてみますと、焼成、つまり焼くときには窯まかせといいますか、焼成の段階でガラッと雰囲気が変わることがよくあるんですけれども、それは必然ではなくて、まったく火の勝手な振る舞いなので、偶然に半分委ねているっていう感じなんです。だから偶然っていうことをいかにうまく使うかっていうことは音楽でも大事になってくるんじゃないか。それで、その鍵として素数という言葉を考えてきて、すごく深読みだし誤読だし、キチガイみたいなことを言いますけど(笑)、でも、よく考えてみてください。(ヤニス・)クセナキスだって集合論とか確率論とか、使いましたよね。そういうふうにして、それもひとつの、大人の思い込みじゃないですか。だから、そういう子どもの思いつきみたいなのだって、情熱さえあれば、きっとおもしろいんだとおもう。だから今日は最後に、素数的な。……7でもいいよ、素数であればなんでも。11,13,17,19……大場さんはね、23で(笑)。他の人に惑わされないで、自分のループをしてくれたらいい。それでやってみて。
(演奏:素数のループ)
工藤:あ、わかった! OK! ありがとうございました。
今のは、ルート音を使って、必然性がありますよね。音程にまずある種の理屈がある。そしてリズムもある種の理屈が通っている。だから、聞いてていやじゃなかったでしょ。だから、こういうことをやりながら、やってけばいいんじゃないか。言いたいことはそれくらい。ここのスタッフの人で、誰だっけな? チェロやってる人。
林谷:いや、僕ひとりでやってる……
工藤:というか、最初のころから、チェロのCD出した人知らない? えーっと、入間川(正美)さん。
林谷:あーはい。
工藤:最初に僕が言った小山博人さんという、小石川図書館にいた人が入間川さんのCDの解説を書いていて、それがとてもいいものなんです……補足の話です。で、その入間川さんの演奏っていうのは、即興演奏を、自分がコンサートで即興演奏を録音して、それを編集したものなんですよ。だから、バサバサっと切ったり貼ったりして、だから行為自体は即興演奏じゃなくて、制度的な作曲行為であって、まったく、最初に言ったポーランドのほら、みんなの即興演奏に同じエフェクトを中間にかけて、という。そういう態度で、だから、即興後のなんかいろんなあがきみたいな作業。それがここの、なんかやってたんだよね? まだいるの?
林谷:あ、定期的にソロを。
工藤:ソロをやって。ああ、だから、ポーランド的な(笑)。というわけで、いろんなことを考えて、いろんなことをやっている人がいるんですが、僕は、今日言ったようなことをさっきまとめてみたっていう、それだけの話で、結局はつまんないかおもしろいかということで、忘れてくださって結構ですが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。これで、辺境プロジェクト、七針篇、終わります。ありがとうございました。
(拍手)
長谷川:工藤さんどうもありがとうございました。参加してくださった皆さんも、どうもありがとうございました。また機会があれば、今度は違うところでもやってみたいですね。地方とかね。よろしくお願いします。ありがとうございました。
(拍手)
(終)
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