ピアノレッスン 第2回 Arbeitsjournal

サボテン
Arbeitsjournal
2025年8月17日更新

ピアノレッスン 第2回



工藤冬里


──教則本や動画を見ていますと、コードが変わるごとに「はい、次フリジアン〜、次リディアン〜次オルタード〜」みたいな教えかたをされています。じっさい弾けるひとというのはそういう脳内なのでしょうか?

小さいころ演歌を聴いていた日本のひとは自然にメリスマを覚えてカラオケを唄います。同じように黒人音楽を聴いて育ったアメリカのひとはソウルの節回しを覚えて歌えます。そうした節回しをジュヌスといいます。民族音楽といわれるものはそのジュヌスの束の組み合わせによって成り立っています。それぞれのジュヌスを特徴づけるのは微分音の感覚です。モンクを紹介するとき、当時のテレビの司会者が、「鍵盤と鍵盤のあいだの音を追求するミスター・モンク」と言っていましたが、当を得た表現だったと思います。ジュヌスをもっている振りをするひとは批判されます。ひと頃のエスニック批判はグローバリズムにたいするものではなく、ジュヌスに関する純音楽的なものだったのです。西荻アケタの明田川がスタンダードに歌謡曲を選んでいたのは示唆的でしたが実を結ぶにはいたらず、エチオピア演歌の精神性はついに日本には根付きませんでした。コードにはメジャー7thだの9thはいりません。ドミソだけで良いのです。そのどれかでうわずりたい、ぶら下がりたい、という身体性のみがリアルです。他人の作曲したスタンダードなテーマのなかのある音にはすでに自分との違和感があるはずで、「半音とか4分の1ずらしてもしっくりくるな」などと思うはずです。その違和感のみを拡大していけば良いのではないかと思います。大事なのは晴れ晴れとしていることで、フラメンコの不協和音の場合は特にそうです。顔で弾く感じです。どの音を選んでもテンションだというのはギル・エヴァンスで実証済みなので、あとは自信だけです。片手で他人のジュヌスを、もう片方の手で自分のジュヌスを、同時に弾けばそれがジャズです。


──「ここでは黒鍵を2つから3つにするといい感じ」みたいな本能的なもののような気がするのですが。

「ただ何かちいさなネジのひとつがまちがっていはしないか」。そう森崎和江は「スケッチ谷川雁」の中で界面に抵触するものの言い方を探しています。ピーター・アイヴァースの頃からLAはスタジオ・ミュージシャンの宝庫ですが、今敵味方キャンセル界隈を牽引しているルイス・コールなどを見ていると、バークレー風の所有を担保としたハイ・プレッシャー・エコノミーによる景気の延命策とも取れます。それは一昔前のジョン・ゾーンのベースレス・トリオなどにも感じたことでした。つまり「かれは、弾けるよね」といったようなジャズ喫茶のマスター的なグローバル・ノースの評価の余地を残しておかなければ立ちゆかなかった世界の終わりをリベラル左翼は生きている。そして情況といえば、現代詩をラップが包囲しているように、豊穣な微分音のBRICSがOECDを包囲しているというのに、です。


──たとえば文法を例にとると、文法とは事後的静的に事象を十全に説明しうるものとして分析されたものにすぎず、ネイティヴの幼児はそれにもとづいて文法を習得するわけではありません。音楽においても同様のことは考えられるでしょうか? つまり幼児の言語習得のような道はありうるでしょうか?

C層の星『漫画ゴラク』の白竜はフランス語教室の面接でそれだけ話せるなら勉強しなくていいのに、と言われ、「言葉を覚えるには赤ちゃんがたどるプロセスをたどればいい。つまりフランス人のなかに飛び込み、話を聞き、片言でしゃべる。そういうふうにしてここまで覚えた。しかしそれでは赤ちゃんのままだ。ここから一歩進めるためには学問として勉強する必要がある。そこでマンツーマンで学べる教室を選んだわけです」と謙虚に語っています。さすが白竜の兄貴、初心者として上からのシステムを教えてもらうという弊害を省き、文法はシノギのために活用しようということなのでしょう。

サラ・へニーズの脳内音楽「モーター・テープス」を聴けば、「音楽」が自分のなかにないことはもはや明らかです。初心者の足掻きのなかに後天的なクリシェとしてのジュヌスはある。しかしその節回し以外の土地を簒奪するグローバリズムの先兵として楽理教室はある。自分のものではないものを強いて取ろうとすること(philip 2:6)は、神と同等であろうとした悪魔の精神です。楽典が自分のなかにないなら、それを受け入れたうえで業界が要介護5のいまはヘルパーとして工芸性を廃した時短料理を作らなければなりません。


──ギターでは幼児の言葉の習得のように、ある決まった手癖でたとえばソラドレミのようなペンタトニックをまず覚えてしまいます。こういうことの延長でその後のこともできないものでしょうか。

無弦琴に行き着くためには、一弦琴を通らなければなりません。かつて山田民族は僕の一弦琴的な弾き方を見て、普通はやらないと驚いていました。一弦琴に行き着くための経路は無数にあり、六弦上の手癖である必要はなく、逆に六弦上でそのことを告訴することもできますが、受理されるためにはどんなジャンルも弾けるようにしておくというデレク・ベイリーの修練が必要です。練習する金も暇もない奴隷にそれは酷なことです。いまはなぜ六弦上の手癖という資本主義が膾炙しているのかが怖気立つ嫌悪感をもって問われるべきでしょう。


──バリー・ハリスによると、セロニアス・モンクはIIm7(-5)はIVm6 on IIとみていたそうです。要はコードとは、6thとマイナー6thとディミニッシュしか存在しない、と。 ビ・バップの時代のひとたちというのは、鍵盤をみるさいにいまの楽理とは別の景色をみていたのでしょうか? 冬里さんにもこういった独自の鍵盤の捉え方はあるでしょうか?

どのキーから始めてもだいたい同じことになる♭5的な執行猶予を目指す引き延ばし策はクラシックにも多く見られます。さっき温泉のBGMでかかってたアベ・マリアとかね。


──ひとつの結論として、楽器を家でひとりで練習するというのは、あまりよくないことのように思えます。やっぱりバンドでしょうか。

トンコリは自分を慰めるためにあります。調弦はどうでもいい。出た音から始まり、次に選んだ音で打ち消していく。それを気が済むまでやればいいのです。
仮想の共同体では流行りの音楽の形式を共通の土台として用いなければなりません。そのうえで、その温度を抜いたり、動機を軌道修正したりするのです。でもそういうことをしようと思っても人間は音楽の外にいるので無力です。
関係ないけど坂本龍一のために訃報Xという都都逸をつくりました。
ずるい抜け駆け柳の巷そよそよ他所に帰ろうか


(終)


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